誰かが泣いている
誰かが泣いている。 しゃくるような呼吸をし、時折鼻をすすりながら、しかし声は上げず静かに泣いている。 本来なら、それは憐憫の情を抱かせるものだろう。 だが孫策には何故かとても懐かしいもののように感じられて、目を瞑ったまま少しだけ、その音に聞き入った。 目を覚まさざるを得なくなったのは、音が案外近くから聞こえることに気付いたからだ。 半身を起こし、ぼんやりする頭を軽く振って覚醒に至る。 ふと周りを見渡せば、陽光は既に窓の隙間から射し込み、室内はその輪郭を取り戻していた。 孫策は自分の隣を見下ろした。 案の定、周瑜は泣いていた。 溜息も言葉も必要無かった。 意識するまでもなく涙の原因を悟り、ただ寝起きの熱でもってそっと横顔を撫でた。 起きて欲しいとは思わなかった。 どちらかと言えば、このまま静かに涙を流し続ければ良いと思った。 周瑜の泣き顔は好きだ。 怒った顔も戸惑った顔も好きだし、欲情した顔は同じ感情を湧かせてくれる。 だから、一番好きでないのは笑顔かもしれなかった。 決して「嫌い」なのではない。 ただそこには、孫策の付け入る隙がないのだ。 眦(まなじり)に涙が溜まっていれば、それを拭うことは誰だって思い付く。 鼻筋から褥へと落ちる軌跡は既に出来上がっていて、また一つ、大粒の涙が滑っていこうとするのを孫策の指が堰き止めた。 濃いまつげが、震える。 周瑜は小さく鼻をすすり、それからまるで振り返るように目を覚ました。 「……起きた」 互いの視線が交わると、孫策はさも「残念だ」と言うように微笑んだ。 周瑜は暫くの間孫策を見つめていたが、やがて上体を起こして涙を拭い、鼻をかんだ。 呼吸を整えるように大きく溜息をついて、前髪を荒っぽく掻き揚げる。 「…ずっと見ていたのか?」 周瑜は、やんわりと責める眼差しで孫策を見た。 「いいや、『ちょっとだけ』だ」 孫策は笑った。 周瑜の髪はまるで漆黒に染め上げた絹糸のようで、先ほど掻き揚げたはずがパラパラと時間差で落ちてくるのが面白かった。 頬にかかる髪に思わず手を伸ばすと、周瑜は自分で素早く耳にかけてしまう。 手が行き場を失って仕方なく頭を撫でると、しかし、そちらには何も抵抗がなかった。 その辺り、周瑜は絶妙だ。 教えるまでもなく孫策の好みを把握している。 例えば今、夜着を着ているのもそうだった。 どんな風に抱いてやっても、周瑜は大抵、朝になると上下の夜着を身に付けている。 寝乱れた袷の間に覗く胸元は、得てして裸体よりずっと色香を放つものなのだ。 「すぐに起こしてくれれば良かった」 「あんまり可愛くてさ、起こすには忍びなかったんだ」 「悪趣味だな」 「悪かねぇさ、本当に可愛いんだから。今度絵に描いて見せてやろうか?」 「それが悪趣味だと言っている」 周瑜はフイとそっぽを向くと、さっさと牀台を降りてしまった。 逆に孫策は、再び牀台に沈み込む。 掛布に残った体温が気持ちよくて、もう一度熟睡できそうだ。 目を瞑り、周瑜の分の掛布を手探りに引き寄せる。 肌触りの良い布を肩に載せると、慣れた匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。 「起きろよ、伯符」 もそもそと着替えを始めていた周瑜は、呆れた声を寄越した。 「…うん…」と半分寝惚けた返事をすれば、盛大な溜息が聞こえてくる。 「公瑾」 孫策は呼びかけた。 「何だ」 「どんな夢、見てたんだ?」 「忘れてしまったよ」 「嘘だな」 「嘘ではない」 「じゃあ何で、起きた時あんなにまじまじと俺を見た?」 「……驚いたからさ。目を覚ました途端、君の顔があって」 「なるほど。お前にしちゃ、下手な言い訳だ」 周瑜は黙った。 牀台に沈んだまま、首だけ動かしてちらりと見遣ると、全く不本意そうに眉を顰めている。 「……面白い話ではないよ」 「解ってるさ。お前が泣くような夢なんだろ?」 「敢えて聞く必要も無いと思うが」 「俺が話せと言ってるんだから話せよ。…それとも、話したくないのか?」 多少強引に迫ると、周瑜はまた黙った。 今度の沈黙は折れた証拠だ。 眉根の皺を一層深くしながら、それでも周瑜は記憶を辿るように視線を横へやる。 やがて、ぎこちなく口を開いた。 「……君が、…と言っても『子供の頃の君』だがね、私のところへ来て、『共に遊ぼう』と言った。…無論、私も子供だったよ」 孫策は頷いた。 頷きながら、ふと、どうして今朝の泣き声が懐かしく感じられたのか、解った気がした。 あれは周瑜の子供の頃の泣き方だったのだ。 誰かに気付いて欲しいくせに、遠慮することと自尊心だけは一人前だったから、子供の頃、周瑜はよく陰に隠れて声を殺しながら泣いていた。 「私は嫌だった」 そう、周瑜は言った。 「おそらく、読みかけの書でもあったのだと思う。…けれど、君は有無を言わさず私の手を引っ張って、どんどん先へ行ってしまった」 「そりゃ、悪かったな」 孫策は苦笑した。 どうやら、孫策は夢の中でも周瑜に無理強いするらしい。 「なに、夢の中での話しだ」 周瑜もちょっと笑った。 「…それで?」 「ずっと歩いたよ。長い間歩き続けて…、『一体どこまで連れて行く気だ』と思った時にはもう、君は居なかった」 それはとても変な話だった。 子供の孫策は、子供の周瑜の手をずっと引っ張って来たはずだ。 しかし、気付いた時には消えていた。 ならば周瑜はいつから、虚空に手を差し伸べて歩いていたのだろうか。 「私は慌てて君を探した。…色々と走り回った気はするのだが、まぁ、その辺はよく覚えていないな」 そう言った後、周瑜は少し気になった風に自分の襟を触った。 きちんと正してあったところを改めて直し、それでもどこか気に入らないように二三度撫で付ける。 最終的に、周瑜は袷の辺りを軽く払って落ち着いた。 そして何故か、夢の話もそこで止まってしまった。 「……で?」 「『で』、とは?」 「続きに決まってるだろ。俺はどうなったんだ?」 「――――― 見つからなかった」 周瑜は素っ気なく言い放った。 「…夢は、そこで終わりだ」 「ふうん」 孫策は身を起こした。 動きに合わせ、二人分の掛布が音も無く膝の上に落ちる。 「確かに、面白くないな」 「…だから、そう、前もって言ったろう?」 視線を向けると、周瑜は、あるいは微笑んでいるようにも見えた。 ただ、室の中央に一人で立っている姿が、ひどく頼りない。 次に目を伏せた時には、気丈な表情は一変してまた涙を零すのではないかとさえ思われた。 「公瑾」 孫策は牀台に座ったまま呼びかけた。 「まだ何か?」 面倒臭そうな目で見られるが、反って笑みが浮かんでくる。 「お前に口付けたいな」 「……だったら、すれば良い」 「お前、ここへ来て、してくれないか?」 「したいと思っているのは君なのだから、君が動くべきだろう」 周瑜は、あくまでその場に固持する姿勢を見せた。 「――――― そうだな、そうしよう」 孫策は頷いて牀台を降りた。 上衣を羽織ることもせず、堂々と相手に近付いていくと、周瑜はほんの少し目を細める。 それはある種の喜びを感じたことの表れだ。 理由は解っている。 既に服を着込んだ周瑜とは対照的に、孫策は上半身裸だからだ。 孫策が布の際に覗く周瑜の肌に婀娜っぽさを感じるように、周瑜は孫策のやや筋肉質で均整の取れた肉体に何かを感じるようだった。 二人の間は、そう遠く離れたものではなかった。 孫策は緩慢とした動作の延長に唇を重ね、位置を確認する様に何度か啄ばむと徐々に深く長く触れ合うようにしていく。 周瑜は特に抗うでもなく、目を瞑って相手の好きにさせていた。 口付けの合間に軽く舐めてみたり、顎に沿わせた手でやんわりと首筋を撫でたりしているのには気付いているはずだ。 それでも窘めようとする素振りさえ無く、互いの唇は次第に潤いを含んで、朝には似つかわしくない独特の音が立ち始める。 相手の気息を読み合って、一旦落ち着くかと、ふと緩んだ口元に舌を滑り込ませた。 周瑜は驚いたようだった。 腕の中で、明らかに身が強張るのを感じる。 孫策は早々と舌を絡めとってしまうと、今度は情欲をはっきり感じさせるように口付けた。 今、本当に押し倒してしまいたいのではない。 ただ、昨夜の熱を思い出して欲しかった。 苦しげな息遣いも、咽喉の奥に篭ってしまう声も、飲み込んで尚溢れる唾も昨夜と同じだ。 隙をみて顔を逸らそうとするのを、無理矢理固定する右手も同じだろう。 眠りに落ちる前、自分たちはそうやって飽くこと無く口付けを繰り返していたはずだ。 その事実を、思い出させたかった。 やがて胸元に押し付けられた周瑜の両手が細かく震え出し、本気になってしまいそうな自分に気付いてようやく、孫策は唇を離して抱き締めた。 「……はくふ……」 荒れた呼吸の中に、周瑜の声が小さく聞こえる。 それはまるで、助けを求めているようだった。 当て所もなく、ひたすら孤独に耐えていたようだった。 ――――― 哀しかった。 何度と無く繰り返された熱が、たった一刻の夢に敵わないのか。 無数に交わされた睦言が、一瞬の不安さえ拭い去ることもできないのか。 孫策は抱き締める腕に力を籠めた。 「…ただの夢だ」 他にあるたくさんの歯の浮くような台詞の代わりに、それだけ言う。 周瑜は小さく頷くと、孫策の肩に顔を埋めた。 やはり、かなしかった。 了 小説topへ ← あとがき:
ちゅーが好きなんです。……私が。(爆)
自分で言うのも難ですが、「訪い」と同じ感じで思いついたストーリーなので、雰囲気も似てる気がします。 ちょっと意地悪系な孫策にしようとしましたが、最後は優しい策兄さんになってしまいました。 もうちょっと幸せなラストにするつもりだったんだけどなー? |