内心ぎくりとしていた俺を、多分、お前は見抜いていただろう。 老将たちがこぞって俺に膝をついた時、心を占めたのは誇りよりも畏怖だった。 ――――― 何を畏れるか? 勿論、今は亡き父・孫堅だ。 がむしゃらにやってきて、そうして俺が立ったのは父の立場だった。 憧れだった。 だから、あの人の後は俺が継ぐ。 けど、憧れてた。 だから俺は、あの人を仰ぎ見るのが好きだった。 思い出すんだ、父のことを。 大勢の者に「殿」と呼ばれ、勇猛に指揮を振るっていた、あの姿を。 一体、先陣を切る背に迷いや不安は無かったのか? 俺は未だにあの日の「畏れ」を忘れていないというのに。 どう見える? どう思う? お前にとって、俺は君主たりうるか? 他でもない、お前の口からこそ聞いてみたいんだ。 ―――――――――― なぁ、公瑾? 君主の品格 「どうした、伯符?柄にも無く考え事か?」 揶揄するようなその一言で、俺はハッと気が付いた。 ぼんやりしてる間に俯いていたようだ。 目に映ったのは胡坐の上に組んだ手で、俺はそれを誤魔化すように透通った声の方を見る。 すると、幼馴染の周瑜が、広げた地図から顔をあげて俺を見ていた。 「話は聞いていただろうな? ――――― 私は、この機に廬江を切り取ってしまうのが良いと言っている」 凛と、言い放つ。 仄暗い室に浮かび上がった美貌は、知られざる魅力の一つだろう。 そして、そうだ。 今夜は二人きりで飲んでいた。 いや、頻度を鑑みるに今夜「も」と言った方が正しいか。 とにかく、今ではもう、二人で飲んでいると自然と話題は軍のことになっていて、急ぎ呉郡を平定し終えた現在、次の出方を模索しているところでもあった。 周瑜の提案を俺が断ろう筈もない。 二つ返事で頷いた。 「あぁ、良いぜ。そうしよう」 けど、周瑜はそこでちょっと眉を顰める。 「簡単に了承してくれるではないか。……本当に、話を聞いていたか?」 「聞いてた、聞いてた。お前のやり方で問題無いぞ」 それでもまだ不安げにする周瑜を、俺は軽く笑ってやり過ごす。 「…では、明日の軍議はこれで」 「おう」 会話に一段落ついたと見るや、酒瓶を取って杯に傾けてやった。 一時無言が続き、次に口を開いたのは周瑜だった。 「……そう言えば、君の肩書きは何だったか?」 口元に酒杯を当てたまま、ふと思いつきに訊ねたような言い方で、だから俺の方も特に何も考えずに指折り答える。 「『呉侯、討逆将軍、会稽太守』、かな?……それがどうかしたか?」 「いや。……つい六年ほど前は無位無官だったのに、と思ってな」 「あぁ、うん」 「お父君の爵位を受けなかった時は意外に思ったものだが、…それが君の心構えだったのだろう?」 「まぁ、そうだ。…実は面倒だった、ってのもあるんだけどな」 「確かに」 周瑜はそこで、小さく笑って杯を呷った。 それは何気ない仕草なんだが、周瑜がやるとこれが結構上品なもんで、何年見てても時々ドキリとくる。 「何だよ、急に…」 俺は、多少、照れ紛れに顔を背けて酒を飲む。 けど、そういう時に限って、この親友は俺を見て訳の解らん笑みを浮かべていたりするんだよな。 「……何笑ってんだよ」 「いやいや…。君もなかなかに、お父君の風格を備えてきたと思っていたところだ」 「父上の?」 「そう」 「どこが?」 俺は咄嗟に訊いた。 何だか突然、胸にモヤついたものが出てきた気分だった。 「簡単に言えば『全体的に』、なんだが。……そう、例えば、今酒を飲む姿勢なんか、似ているな」 そう言う様子は何故だかとても嬉しそうで、俺は自分でも解らずに問いを続ける。 「お前、父上のこと、よく覚えているのか?」 すると今度は、周瑜は本当に笑い出した。 酒に酔ってしまったような、軽快な笑い声だ。 「何を言う?忘れる方が難しい御方ではないか」 「でも、『酒を飲む姿勢』ったって……」 「そうかい?君だって覚えているだろうに」 「や、俺はさ、子供だし…」 「私の事とて実の子供のように扱ってくれたぞ。お父君は器の大きな方だった」 そこで、俺はグッと詰まった。 俺は知っていた。 周瑜は、心底父を尊敬してた。 だから余計、思ってしまうんだ。 ――――― お前、『孫堅の息子』について来たんじゃないか? って。 それは他の将兵たちにも言える事だったが、あいつらならそれでも良かった。 最初はとにかく兵数が欲しかったから、集まるだけ集めて、いずれ認めさせてやる、と思えた。 老臣たちも、『孫堅の息子』に会いに来た。 それで良い。 教えてもらう事は少なくないし、『知らない仲じゃない』ってのは、いざという時心強いもんだ。 ……けど、周瑜には。 俺と同じ目線であの人を見ていた周瑜にだけは、そう思われていたくない。 そう、強く思うんだ。 「…まぁ良いではないか。君はやはり『虎の子』だという事だ。素直に受け取り給え」 俺が急に黙ったもんで、周瑜は適当言って話題を切り上げた。 目端が利くとか聡いとか言われてるが、存外、人の気も知らずにあれこれ言う奴だ。 やっと杯を降ろしたから酒瓶を向けてやったのに、周瑜は「あぁ、もういい」と気怠そうに杯の口を押さえてしまう。 そして、次の言葉だった。 「そろそろ部屋へ帰るとしよう。明日も軍議が長引きそうだからな」 俺は耳を疑った。 「…は?お前、このまま行くつもりかよ?」 信じがたくも立ち上がって身体の伸びまでし始めた相手を、俺は目を眇めて非難する。 周瑜は、上方に伸ばした腕をひょいと避けてこちらを見た。 「あぁ、悪かった。無論、酒杯は片付けてからにする」 「おい、わざと言ってんのか」 「自覚の無い方が、質が悪いと思うぞ」 「そういう事言ってんじゃねぇ」 「ならば、君の方が鈍いのではないか?」 やれやれ、と周瑜は腕を降ろし、腰に手を当てると溜め息をつく。 「…もっとはっきり言った方が良いかね? 『今宵は君と寝る気は無い』、と」 「くっ、…お前なぁ!」 スカした顔して結構なことを言うもんだ。 俺がいきり立つのも当然だろう? けど、そこは長年の親友。 周瑜にとっては俺の怒りなど屁でも無く、立ち上がった俺を余裕で制した。 「何やかや言って、一番忙しいのは君だ、伯符。休める時には、休んでおくものだぞ」 片手を振って寄越し、軍議中に船でも漕がれたら堪らぬ、とさえ付け加える。 「俺は平気だ。体力勝負なら誰にも負けねぇ」 「こんなところで体力勝負されても困る。ご自重召されよ、『殿』」 言葉の最後は殆ど軽口で、もう随分慣れた事のように周瑜は俺をあしらった。 くるりと背を向けると早々に立ち去ろうとするので、俺は反射のように抱きとめる。 …… 全く、口では敵わんから、結局俺は手を出すほか無くなるんだ。 「待てよ、公瑾」 「何だ」 「口付けくらい、して行け。寂しいじゃないか」 俺はそう言った。 俺の側とて、あそこまではっきりと言ってくれた奴を牀台へ引っ張る気などない。 けど、かと言って、そのまま行かせてしまうのはやっぱり癪というものだろう。 で、少し緩めた腕の中で周瑜を半回転させると、案の定、呆れた瞳とかち合った。 「言うに事欠いて『寂しい』、とは…」 文句は改めて噴出している。 そんな様子だ。 けど実際、それじゃきりがないと判断したようでもあって、周瑜は仕方なしに腕を伸ばしてきた。 左頬に、手が添えられるのを感じる。 楽をやってる所為か、周瑜の指先は大概細くて滑らかだ。 「…ほら、早く目を瞑れ……」 囁き混じりに急かす声は、上手い具合に掠れていて ――――― 。 俺は良い気分で、目蓋を閉じた。 ――――― よくよく考えてみるに、俺が殊に周瑜からの評価を気にするのは、つまり、こういう事があるからなんだろう。 長い付き合いだからな。 良いところを解っていれば、情けないところも承知してる。 そして、往年の父を覚えている。 その周瑜が俺を『君主』と認めるならば、それは何より説得力があるし、そういう時こそ俺は父を越えたと思える気がするんだ。 「…くそっ、あいつ、中途半端に父上の話題なんぞ出しやがって」 周瑜が去った後、俺は室内で独り舌打ちした。 いつになく、子供の頃の記憶が蘇ってきたからだ。 しかも内容は決まって俺と父と周瑜が居る場面で、多少気のせいもあるかも知れないが、大抵父は周瑜を誉めていた。 周瑜の喜び様もまんざらではなくて、当時の俺も、あまり面白く思っていなかった。 勿論、今とは理由が違う。 あの頃は、俺も父に誉められたいと思っていたからだが、今はむしろ、当時の周瑜の眼差しが気になる。 父を見る尊敬の眼差しは、一点の曇りも無かった。 何故だか、その時その光景が鮮明に思い出されて、俺はどう足掻いても亡き父の像を越えられないのだと、不意にそういう気分に襲われた。 だんだん居ても立っても居られなくなって、堪らず牀台を這い出した。 室には先までの酒瓶や杯やらが散らばっていて、卓上には、まだ話し合いの地図が放り出されている。 俺はふらふらと卓に近付くと、ぼんやり地図を眺めた。 「……『廬江を切り取る』、か……」 呟いた俺は、いつの間にかその場に座り込んであれこれ考え始めていた。 下へ 小説topへ ← |