一、 実際の話、私は周瑜以上に美しい人間を知らない。 彼はその容顔だけでなく、所作振る舞い、声や言葉遣い、果ては纏う雰囲気でさえも美しい。 ゆったりとした物腰はいつも変わらず、穏やかに微笑む聞き上手なところが男女いずれの心も奪い去るのだ。 だが、彼が本当にいつ何時もその様子を保ち続けるというのは嘘だ。 ただ一人、その人の前では、彼のゆったりとした物腰も穏やかな微笑みも、少しばかり狂う。 それでも、美しさだけは変わらない。 ――――― いや、違う。周瑜はその人の前だといつもよりもっともっと、美しくなる。 それはそれは、咲き誇る花のように。 *** 「お久しぶりです、周兄」 三年、……否、四年振りに会った彼に、私は笑顔満面で挨拶した。 「やぁ、仲謀殿か。久し振りだな。……少し見ないうちに随分大きくなった」 彼も挨拶を返しながら、もう兄と同じくらいの背丈になってしまった私を見事なくらい自然に見回した。 「はい。……兄上に小突かれてしまいましたよ。『お前は内に篭って読み物や討議ばかりしているのに、俺よりもすくすく育ちやがって……』と」 私の受け答えに、周瑜は声を上げて笑った。 そういう笑いは、彼が気を許した者の前でしかしない。柔らかい微笑を浮かべる周瑜も綺麗なものだけれど、彼が軽快に笑うと周囲の空気がぱっと華やいだ感じになるのだ。これを目にすることができるのは、やはり『義弟』の役得だろう。 「元気そうで何よりだ。仲謀殿も年頃になっていよいよ頼り甲斐が出てきたかな?」 口元に軽く手を添え、こちらを見遣る。その仕草が妙に色っぽかった。……まぁ、そう感じるのは私だけかも知れないのだが。 多少どぎまぎしながら、私は控えめに首を振った。 「いいえ。私など足手纏いにならないよう心掛けるのが精一杯です」 「良いではないか。それは大事なことだぞ?」 周瑜の容顔が、ふっと優しく笑う。 そういう笑顔を久し振りに見られて、私はとても嬉しかった。周瑜といると、穏やかな気分が伝染してくるのか、静かに会話を楽しむことができる。 私は今更ながらに、こんな人物と義兄弟の契りをした兄に感謝した。例え義理の関係でも、周瑜が『兄』だなんて、やっぱり幸せだと思うのだ。 「ところで仲謀殿、伯符は何処にいるかな?」 会話に一区切りついたのをみて、彼はそう言った。……成程、周瑜は兄を探していたのか。 「はい、兄上なら只今堂にいらっしゃるかと。私、先ほど会って参りましたから」 私は丁寧な態度で答えた。 『兄上』は、つまり本当の“兄”で、最近やっと袁術の元を離れることに成功し、一軍を率いている。それで今年、私が十五になったのを機会に、兄は私を呼び寄せた。 私は今日、本陣に到着したのである。 「そうか。ありがとう、仲謀殿」 「いいえ」 私は別れの挨拶と思って、ぺこりと頭を垂れた。 周瑜も軽く頭を下げて通り過ぎようとする。 その肩が、丁度横に並んだ時にふと止まった。 「言い忘れていた。 ――― 仲謀殿、この周公瑾、貴殿を心より我が軍に歓迎しますぞ」 彼はよく透る声でそう言い、私の肩を軽く叩いてから歩き去った。 一瞬後に振り向くと、颯爽とした後姿は幼い頃の記憶以上に心強く感じられたものだった。 挨拶に来た夜は、兄が盛大に宴を開いてくれた。 幕舎には重臣の面々が揃っていて、兄は上機嫌に『後々お前に仕えてくれる人々だ』などと言って紹介した。しかし、兄が一体どこまで本気なのかは知らないけれど、どう見たって彼らは兄に心酔して付いて来た人達だ。その紹介は如何なものだろう? 「酒は、もう飲めるだろう?ん?」 手渡された杯に、兄はなみなみと酒を注いだ。たっぷりの酒を前にした私を、半分は好奇の目で見守っている。 「はい。嗜む程度ですが」 軽く頷いて、私は酒杯を飲み干した。一息にいったので、兄はますます上機嫌に囃したててくれる。隣に座る周瑜も、半ば驚きながら壷に手を掛けた。 「これはいける口だな、伯符。…では、私からも杯を受けてくれ給え」 「頂戴いたします」 差し出された酒壷に、杯で応対した。酒杯が満たされるのを待って、再び飲み干す。 うん、美味い。 杯を降ろして軽く息をつくと、どこからかフワフワした気持ち良さがこみ上げてきた。 ――――― 酒は、……大好きだ。 「……それでは、私からもお注ぎいたします」 「おぉ」 兄はにっかりと笑って、私の前に杯を突き出した。それに向かって酒壷を傾ける。目分量で八分目まで注いだら壷を起こし、その次に周瑜に対して壷を傾けた。 杯に添えられた周瑜の手は白くて、大人の男の割には繊細で、そういえば昔はよくこの指で琴を弾いて聴かせてくれたっけ、などと感慨を持ったりしてみた。 それで、ついうっかり……なのかな?とにかく、壷が揺れて周瑜の手に酒が零れてしまったのだ。 勿論、私は途端に平謝りだ。 「す、済みません、周兄」 だけど、周瑜はいつものように微笑んで、 「何の。私の手もたまには酒を味わいたいだろうて」 と言って、そのまま杯を干してくれた。 私はほっと安心した。すると、それを狙ったように兄がとんでもないことを言い出す。 「おい、他の幕僚たちには粗相の無いようにしろよ。ほれ、そこの壷持って挨拶してこい」 「……わ、私一人で、ですか?」 言い付けられた内容に、私は多少怖気づいた。だって、今さっき紹介された幕僚たちに、私一人で酒を注いで回れって?殆ど全員が兄よりも年上で、それどころか一廻りも二廻りも年上だってざらに居る中に、私が一人で行くなんてとてもじゃないが出来やしない。 しかし、兄はそんなこと構ってはくれなかった。 「…ったりめーだろ。世話になんのはお前なんだからな」 そう言って、兄は強引に私の杯に酒を注ぐ。 「これを飲んだら行ってこい。何、言葉に詰まったら注げばいいんだ、注げば」 ――――― じゃぁ、酒が切れたらどうするんだ。とは聞き返すことができず、私はただ満たされた酒杯を干した。 あぁ、美味い。 息をつくと、旨さがジワリと身に染みていくようだ。 そして染みた部分から重圧が消えていくようだ。 ―――――……、行くか。 「……行って参ります」 一言言って、私は立ち上がった。示された酒壷を手に取り、年嵩の群れに向かって進んで行く。 そう、言葉が通じないわけじゃないのだから、適当に挨拶して、お酒注いで、それでも怒られちゃったら飲めばいいんだ。…………あれ、『注げばいいんだ』っけ? 「……伯符」 「んん、何だ?注ごうか?」 「あ、済まん。…いや、そうでなくてな。仲謀殿の歩き方、あれはもしや酔ってはいまいか?」 後々聞いた話じゃぁ、その時兄たちはそんな会話をしたそうだ。 *** ――――― 静かな、静かな声。 楽しそうに、会話をしている。 時折、衣擦れの音。笑ったり、酌み交わしたり、身動きしている音なのだろう。 父や兄は、戦の喊声とか銅鑼の音が好きなのかも知れないけれど、私はこういう音がたまらなく好きだ。満ち足りた、生活音とでも言うのかな。……人が暮らしている、幸せに、豊かに。 良いと思うんだ、個人的には。 とても心地よくて、私は目を瞑ったまま身じろぎして体勢を調整した。 それで気付いた。私は、牀台に寝ていた。……おかしいな、いつの間に?確か、さっきまで宴席で長老たちに挨拶していたはずなのだけど。 そんな事を考えていたら、寝惚けた神経がようやく起きてきたのか、楽しげな会話の声が次第にはっきりと聞こえてきた。 「……権は、あれは酒に弱かったみたいだな……」 兄の声だ。苦笑交じりなのが、見なくても目に浮かんでくる。 「一口にそう言ってしまえるかな?あれで、飲んだ量はなかなかのものだったぞ」 答えたのは周瑜の声。 あぁ、もしかしなくても、私は酒に倒れて兄二人に迷惑をかけてしまったらしい。――――― 成程、それで私は牀台に寝かされていたのか。 「そうか。……ありゃぁ、かなりの酒乱だ」 「酒豪の上、酒乱か……。流石は君の弟だ、先が思いやられるな」 そこでチッと舌を鳴らす音が聞こえる。 「…んだよお前、都合悪い時は『君の弟』呼ばわりなのな。あんなに可愛がってた義弟なのによ」 「いやいや。豪気さは君の家系ならでは、ということだよ。無論、可愛い義弟さ」 そう言って軽く笑う声を境に、暫く声が途切れた。 壷の注ぎ口が杯に当たる音がする。兄たちは、まだここで宴会の続きをやっているようだった。 それにしても、会話の内容には顔から火が出る思いがする。私はどうやら単に倒れたのではなく、相当暴れた挙句にぶっ倒れたらしい。残念ながら暴れた記憶はすとんと消えてしまっているのだけど……、いや、これはむしろ残念ではないのかも。 私は自分の行いが恥ずかしくて申し訳なくて、そろそろ目は覚めてきていたけれど、寝入っている振りを続けた。 ――――― 再び、壷と杯がぶつかる音。 しかし、酒が注がれる音は聞こえてこなかった。 「……酒は、もういい」 まろやかな周瑜の声がする。 周瑜は、自身が音楽に長じている為か、声の響きが独特だった。命令する時は凛と鋭く、親類に対する時は穏やかで耳に心地よい声を出す。つまり、兄に対しては後者の声を出すと言うことだ。 兄の低い笑い声が聞こえた。 「……何だ、酔ったか?」 何故だか兄は、とてもとても面白そうに訊いた。 心配でもなければただの疑問でもない色をもった声に、私は反射的に違和感を覚えた。 だって、そこまで面白い話題じゃないだろう?周瑜が酔ったか否か、なんて。 それ以前に、なんでそんなこと訊くんだ?『もういい』と言った声は呂律もしっかりしていたし、第一、酔っ払っていたら酒を拒んだりしない。 なのに、兄に答える周瑜の声もやっぱり、とてもとても楽しそうで。 「あぁ、酔ったな」 くすくすと、笑ってさえいた。 「どのくらい酔った?……あいつほど酔っていたら、少し困るな」 兄の言う『あいつ』というのが自分のことだと解って、私は瞬時に身を固めた。二人の意識が一瞬私に向かった時に、私は自分が目を覚ましていると気付かれてはならないと判断したのだ。 この必死の装いが上手くいったのか、周瑜はそのままの調子で会話を続けた。 「……さぁ?自分が酔っている時に、それがどの程度か解る人間ているのかい?」 ゆったりとした話し方だったが、非常に筋が通った、およそ酔っ払いの言うものではない台詞だった。 「それもそうだな」 兄が同意すると、周瑜はふっと笑う。 「では、君に尋ねようか。…私は今、どれくらい酔っている?」 その声は、ぞっとするほどの響きをもっていて。 「それは俺の質問だぞ」 「だが自分では解らぬ」 「……じゃあ、試してみるか?」 そう言った兄の声も、ぞっとするほどの深みがあった。 それきり二人の声はもっと小さくなって、何か言っているのは判るのだけど、何と言っているのかは判らなくなってしまった。 ただ……――――― 。 ただ、柔らかい衣擦れの音と囁くような気息が妙に甘く聞こえて、私は一人、牀台の上で居心地悪い恥ずかしさを感じていたんだ。 でも実際のところ、そんな状態は長く続きはしなかった。……いや、むしろ短い時間だった? とにかく、二人は声を小さくしてから割合すぐに席を立って、どこかに行ってしまったんだ。 最終的には、私は室内に一人になったわけで。私はやっと目を開くと、外の光にぼんやりと照らし出された天井を見上げた。 ―――……今のは、何だったんだろう? とりあえず、仲違いでない事は確かだ。あんなに楽しそうだったし。……いやいや、それで終わらせては間抜けすぎるか?あれはむしろ、仲良過ぎだろう。 しかしながら、兄たちの仲が良いことは公然の事実だし、そもそも仲が良いから義兄弟になったのだ。私も二人の仲の良さは幼い時分から見てきているし、何よりも、二人が時々言葉遊びのような会話を楽しむことを知っている。謎掛けや比喩、隠喩。先ほどの会話も一応それと種類を同じくしていたから、本気で戯れてたっていうのも、まぁ、無きにしも非ず。というか、あの二人なら他の人が戯れで済まない事も、戯れの内に入れてしまいそうではあった。 結局、私は決定的な場面を見たわけでないことを理由に、あまり詮索するのも失敬かと考えて、一度寝返りを打つとそのまま眠ることにした。 ―――――…… そうだな。 確かに、『どれくらい酔っている?』と訊いた周瑜の声は、妙に耳に残ったけれど。 それも今の段階じゃ、私の個人的な感性によるものかも知れないだろう? 続く → 二へ 小説topへ ← |