二、 翌朝、私は兄たちに謝ることから一日を始めた。 勿論、宴席での失態についての謝罪だ。 兄二人はちょっとした注意を添えつつ、だが意外とすんなり私を許してくれた。……まぁ、その笑顔は多少引きつっていたが。 それで、早いうちに役所へ連れられて二張 ――― 張昭と張紘 ――― に改めて挨拶すると、私はそこで仕事をすることになった。 張昭は文官を仕切る立場にあったから、私に付いてあれやこれやと世話してくれたのは張紘だった。彼が言うには、とりあえず役所内のどこに何があるのか、何があったらどこに行けばいいのかを覚えるのが先決だそうで、一通り案内をされた後は彼の仕事の手伝いをさせられた。 取り立てて楽しいことじゃなかったけど、武芸をするのに比べたらかなり良かったな。 そうやって、三、四日はすんなり過ぎ去った。 私は役所のことをだんだん覚えてきて、仕事に対する面白みも感じ始めていた。 時々、二張が私の意見を訊いてくれたりして、―――― それはむしろ私の力量を測るものだったんだけれども ―――― すごく充実していたのだ。 だから、もうその頃になると、私の頭からはあの夜の兄たちの会話などきれいさっぱり忘れ去られてしまっていた。 ある日の夕餉の後、私は手持ち無沙汰になって周瑜の室を訪れてみようという気になった。 それは初め単なる思い付きだったのだけれど、回廊を歩くうち、『久しぶりに琴でも奏でてもらおうかな』なんて、私はすっかり乗り気になっていた。 ところが、周瑜は室にいなかった。 傍を通りかかった下男を捕まえて尋ねたが、その者も何も知っておらず、私は少し待って戻ってくる様子がなかったら自室に戻ろうかと考えていた。 しかし、その時閃いた。 ――――― 周瑜は兄の所にいるに違いない。 何故だか、そう思い込んでしまったのだ。そうしてくるりと身を翻すと、私は兄の室へ向かった。 兄の室は邸でも一番奥まった位置にあって、他の一族、臣下たちの室からはちょっと離れていた。直前にも衛士みたいな人が立っているが、しかしそれは簡単に挨拶して通り過ぎればよいくらいのものだ。 ―――――…… その筈なのだけれど、 「お待ち下さい」 その日に限って、私は戟を持った下男に止められてしまった。 私は吃驚して、下男を見返した。 「弟の孫仲謀です。私の顔、知っていますよね?」 下男は頷いた。 「はい、確かに。存じ上げております。しかし、お通しできません」 「私でも駄目なのですか?……急の軍議でも?」 「俺には判りかねます。ですが、『誰も通すな』とのお言い付けです。例外はございません」 きっぱりと言われてしまって、私は少しムッとした。 「……でも、周公瑾は来ているのだろう?」 それは、私の意識としては独り言に近かったけれど、下男はそう取らなかったらしい。彼は少しの間困った挙句、こう答えた。 「俺で宜しければ、言伝をお伺いしますが…」 「……いい」 私は不機嫌に踵を返すと、しばらく自室に向かって歩いた。 ――――― こんなことで、簡単に引き下がってよいものか。 いや、普通ならここは大人しく引くのが筋なのだけど、私は仲間外れにされたように感じて悔しかった。それで、兄の裏をかいてやろうと思ったんだな。 というのも、私には勝算があった。……抜け道があったのだ。 邸の主人の部屋に向かう途中、内庭に作られた塀に穴が開いている場所があって、その存在を私は知っていた。ただ、その穴は植物の背で簡単に隠れてしまうもので、その上、大人が通れるかどうかは微妙な大きさだった。 しかし今こそ、その穴を通るべきである。 私はそう信じて疑わなかった。そして回れ右をすると、今度は下男に見つからないようにその塀を目指した。 それで、まぁ、面白いくらいに上手くいった。下男に見つかることもなく、穴にはまってしまうこともなく、壁の向こう側に出ると嘘みたいに人の気配が無くて、私はわくわくしながら兄の室へと歩いた。 どうせ二人で酒でも酌み交わしているのだろう。 彼らを驚かせて、笑わせて、「私を仲間外れにして酷いではないですか」と詰ってやろう。 私の考えは、おおよそそんな感じだった。 ところが、目に入ってきた兄の室は、少し暗かった。 窓から毀れ出ている明かりは弱々しいもので、燭が足りていないのではないか、あるいは、消し忘れをしたまま眠ってしまったのではないかと思った。 そして更に踏み込んだ時、 「―――……!」 背筋がぞくりとするような声が聞こえてきた。 それは本当に突然のことで、また一瞬のことだった。 だから、私は真っ先に自分の耳を疑った。 それで、軽い動揺を隠せぬまま、止せば良いのに、兄の室に近付いた。 すると ―――― 、 「……っ、…ぁあっ……」 足が、竦む。 近付いた距離だけ、今度ははっきりと耳に届いた。 「ふ、…あっあっ、……ゃっ」 全身総毛立つほどの、嬌声。 ――――― それは誰の声か。 しばし混乱して立ち尽くしていると、低い呻き声が聞こえてきた。 「……っん、…う……」 これはすぐに判る。……兄の、声だ。 兄の呻きに呼応するように、嬌声が上がっている。 室内で起こっている事態について、疑いの余地は無かった。 それを理解するに伴って、急に体の末端が冷え込んでいくのを感じる。両の足は、まるで凍り付いてしまったかのようだった。……なのに、頭だけは火が灯ったように熱くなって。 一方、艶めく声は刻が経てば経つほど酷くなった。あたかも、悲鳴を上げているかのように。 「…あっ、ぁあっ!……は…っく、ぁ……」 その声は、快楽に流されながら尚も何か意味を成そうとしていた。 解っている。相手の名を呼ぼうとしているのだ。――― つまり、兄の字を。 それを兄も解っているのだろう。 一生懸命に紡ごうとする言葉を散々に奪っておきながら、荒い呼吸の下で、だが愛おしげに相手の名を呼んだ。 ――――― 公瑾、と。 何故だか、目頭が熱くなった。 気付くと私は自分の口をしっかりと手で覆っていて、きっとそうしなければ、咽喉を衝く嗚咽を抑えきれずに洩らしてしまったんじゃないかと思う。 私は、自分が耳にした事に少なからず衝撃を受けた。その為か、その後どうやって自室に戻ったのかは全く覚えていない。 思うに、途方に暮れた足取りだったんじゃなかろうか。 翌日に見た兄二人は、全く普段の通りだった。 私ばかりが変に意識してしまって、二人を見ると頬がひとりでに紅潮してしまい、朝餉の時など一度も顔を上げることができなかった。 ――――― きっと宴の夜も、私の居室を出た後はああだったんだ。 そう思えば思うほど、私は二人を前に緊張を隠せなかった。 二人は本当に仲が良い。 回廊を歩いていたり、亭(あずまや)で話し込んでいたり、ふと見ると兄と周瑜は一緒に過ごしていた。 兄と居ると、周瑜はよく笑う。 兄も周瑜に対しては、他の人に対するよりも険が抜けている。 ――――― それは気を許し合った朋だから。 だと、思っていたのに…………。 私は苦しくなった。 私が知ってしまったこと、それを自分一人で抱えているのが酷く辛くなったのだ。 しかし一体、誰に言うことが出来ただろう。言えるはずが、なかった。 私は数日の間、誰かに相談したいという欲求と簡単には言えないその内容に、酷く悩まされていた。 *** 夕餉の席を抜けた後のことだった。 「仲謀殿、この様なところで一体何を?」 「え!?」 振り返ると、周瑜が立っていた。 「如何した?その様に驚かれて」 私の反応が余りにも大きかった所為か、彼はからかい口調で小さく笑う。 その様子が、従来知っている周瑜ではないように感じられて、私は顔を背けた。 「いえ、そんな。……周兄こそ、どうしてここに?」 「ふむ、すぐそこが私の室なのでな。どうしてもここを通らねばならぬのだ」 「あ……」 しまった、という風に声を洩らすと、彼はカラカラと笑う。 あんまり悩んでいたものだから、私は知らぬ間に周瑜の室近くまで彷徨ってきてしまったのだ。 「どうだ、仲謀殿、ここまで来たついでだ。この公瑾に、しばし役所での仕事ぶりについて話をする気にはならぬか?」 周瑜の話し方はあくまで気さくだった。 それは、私に何とも言い難い後ろめたさを感じさせる。それでグッと俯くと、彼は今度、気を遣う姿勢をはっきりと見せた。 「何があったのだ?……伯符も心配しておったぞ。ここ数日、仲謀殿は元気が無いと」 「…あの、…いえ……」 周瑜の口から兄のことが出ると、私はいよいよ居たたまれなくなった。 何とかして、この場を去る口実を得ようと思考をめぐらす。 すると周瑜は周瑜で、温かい言葉とともに私の肩に手を伸ばしてきた。 「では昔のように楽を奏して差し上げようか?ここには琴は無いが、笛ならば少々……」 「……っ!」 その場に、乾いた音が響いた。 私は、咄嗟に周瑜の手を払い除けていたのだ。 「……仲謀殿……?」 「あ……す、済みません、周兄……」 私自身、自分の取った行動に驚いて顔を上げた。 彼も驚いて、私を見つめ返している。 当然だ。私を心配して声を掛けているのというのに、わけが解らないだろう。 しかしそういう周瑜が、以前の彼のように私の目に映ることも無い。 そこにいるのは、兄の美しい情人だった。 その肌は兄に愛されることを知っているのだろう。その唇は兄の名を紡ぎ、兄の為に声を上げるのだろう。―――― 私は知っている。 けれど周瑜は私が知っているとは知らないから、それらがまだ純粋に美しいままであるように振舞っている。 ――――― 見ているのが、辛かった。 知らない振りをするのが、尚一層。 私は、また泣きそうになっていた。 「仲謀殿、一体何事が……?」 周瑜は、私の様子に目を丸くして訊ねる。 ――――― 白を切るな。私は知っている。 私は唇を噛み締めた。 「周兄は、…あ、兄上と、どういうご関係なのですか……?」 やっと絞り出した声は、最後のほうが殆ど消えていた。 それでも周瑜には通じたのだろう。 私の言葉を理解すると、彼の顔から瞬時に表情が消え失せた。 「……何を、見た……?」 それは柄にも無い掠れた声で。 「…見たのではなく、声を……」 私の方も酷く緊張して、震えた声だった。 「…周兄は……」 一旦、躊躇うように言葉を切った。 何と言えば良いか、その表現に困る。 私を見る周瑜の目は、常の余裕を失って痛いほどに真剣だった。 私は、意を決した。 「周兄は、兄上と……抱き合って、らっしゃった……」 周瑜は絶句した。 白かった顔は次第に青ざめ、瞳には動揺が奔り、拳を握り締めた。 だが、否定しなかった。たとえ否定されたところで信じはしないけれども、つまりは、周瑜も私の言う関係を認めるということだ。 私たちは、暫く向かい合って立ち尽くした。 その間、周りの空気はとても重苦しく、気まずいものだった。 そして耐え切れなくなった私が、まず声を発した。 「……周兄」 「誤解しないでくれ、仲謀殿」 周瑜もつられた様にさっと口を開く。 しかし、それは全く彼らしからぬ言い訳がましい言葉で。 ――――― 何が『誤解』だ? 私は自分の耳で、しかと聞いたのだ。あれは間違いじゃない。 ……ところが、周瑜が言ったのはそういう事ではなかった。 「――― 誘ったのは、私の方だ ―――」 周瑜はそう言った。 「だから伯…いや、あなたの兄君は何も悪くない。兄君が余りに……そう、魅力的だから、私の側から迫ったのだ。幻滅するのなら、どうか私だけに…」 「…げ、『幻滅』だなどと……そんな…」 私は驚き、慌てた。 周瑜は全ての責を自身に負わせようとしているのだ。 「済まない。私は兄君を押し戴く立場に在りながら、軽率なことをした」 「周兄!」 私は叫んだ。 周瑜は、私に頭を下げることさえしたのだ。 「その様なことはお止め下さい。私は……」 自分で口にしておきながら、私は思いも寄らぬ方向に話が進んでいるのを感じた。 周瑜は一体どうしようと言うのだろう? それは解らなかったが、しかし、決して良い方向に向かっているとは思えなかった。 そして彼は断固と言った。 「いや、私のした事は重大だ。己の主君を誑(たぶら)かしたのだからな。……しかし、職務ゆえに簡単に軍を離れるわけにもいかぬ。それは許してもらえぬか?」 「そ、…許す、許さぬなどと……滅相も、ございません」 「かたじけない。……今後は一切、この様なことは無いと誓おう」 それが、話題の終止符となった。 展開が速すぎて、私は話の筋を追えずに俯くことしかできなかった。 そして最後に、周瑜は問うた。 「ここ数日、仲謀殿の元気が無かったのはその為か?」 私は素直に頷いた。 「それは、気を遣わせたようで済まなかった。これでもう、元気を出してもらえると良いのだが……私がそれを口にするのは、おこがましいか」 穏やかに言った周瑜の微笑は、どこか悲しげだった。 周瑜と別れた後、私は今度こそ間違えずに自室へと向かった。 回廊を歩いていると、堂からふいに大きな笑い声が聞こえる。 ――――― 一族や寵臣たちに混じる、上機嫌な兄の声。 夕餉の席は、まだ続いていた。 周瑜は、早めに退席した私を追ってきてくれたのだった。 優しい、優しい周瑜。 そういう彼に対してあの事を打ち明けて良かったものかどうか、私はふと不安を感じた。 続く |