三、 それから一週間後、あっと驚くような出来事が起きた。 朝、堂に現れた周瑜の顔に、大きな怪我ができていたのだ。 腫れ上がった頬は処置した綿布の上からでも明らかで、はみ出した鬱血の色が白い肌に一層痛々しかった。 きっと誰かに強く殴られたのだろう。 誰が殴ったのかは、すぐに解った。 ――――― それは兄だった。 食事の場にいて一言もしゃべらなければ視線すら交わさない状況で、二人の関係が最悪になっているのは一目瞭然であった。 皆、唖然とするしかなかった。 昨夜まで仲良くしていたはずの兄たちが、今朝顔を見たと思ったら突然険悪になっていたのだ。 しかも周瑜は顔を殴られている。 幼い頃こそ手や足を出して喧嘩をしたこともあったが、今の歳になって殴り合い ――― どちらかと言うと一方的だが ――― をするなど、俄には信じ難かった。 更には、喧嘩の理由が解らなかった。 兄も周瑜も、それについては一切語らなかったのだ。 だから口の出しようがなく、皆、兄たちの動向を遠巻きに見守ることしかできないでいた。 間もなく、二人の不仲は思わぬ影響を出すことになった。 軍の士気が急激に落ち込んだのである。 二人はこれまで『孫郎』『周郎』と親しまれ、『断金の交わり』と言われてきた仲だ。それがこうも仲違いされてしまっては、周囲の将兵たちも意気が下がってしまうのだろう。 孫軍にとって、彼らの仲睦まじさは士気の源の一つだったのだ。 しかも兄は日増しに機嫌を悪くし、兵たちにきつく当たるようになった上、頻繁に癇癪を起こすようになった。……うん、はっきり言って怖いな。だから、部下たちも腫れ物に触るようにビクビクしながら兄の顔色を伺っていた。 一方で、周瑜もやはり常の覇気を弱くしていた。何より、あの美しい微笑が失われていったのだ。 周瑜の部下は、少なくとも兄の部下よりは怖い思いをしないだろうが、いつもの上司の笑顔が見られなくなってかなり落ち込んでいた。 そして、二人が職務上会話をしなければならない時はもっと酷かった。 彼らは不自然なくらいによそよそしく話し、必要以上には決してしゃべろうとしない。それで兄は益々機嫌を損ね、周瑜の表情は翳りを増すのだった。 ――――― しかし、とにもかくにも軍の士気が衰えるのは問題だ。 周瑜は流石にこのままではいけないと思ったようで、ある時、そう遠くない場所の山越討伐を献策した。 それは孫軍にとっては勝って当然のような勢力で、だからこそ今まで見逃してきたようなものだった。 ここはひとつ、勝ち戦をして萎えた士気を高めよう、という考えである。 だが、兄はこれを却下した。 悪くない献策であったから、他の武将たちは控えめながらも周瑜の案を後押ししたのだが、そのうち兄が癇癪を起こした為に、軍議自体お開きになってしまった。 周瑜の案が退けられるのは珍しいことだった。 けれど折しも仲の悪くなっていた二人であるから、この時の兄の行動はひどく幼稚ではあるけど、幕僚たちもある種の理解を示してそれ以上は追求しなかった。 なのに、兄はそれだけに留まらなかった。 後日、呂範が同じことを献策した際にはあっさりとそれを受け容れたのである。 しかも周瑜は討伐軍に加えられず、本営守備を言い渡されたのだ。 疎んじるのもここまでくれば、あからさまである。 表向きには『軍の留守を預かる』ということだが、きっと誰の目にも周瑜はわざと遠ざけられたように映ったに違いなかった。 しかしそれでも、周瑜は兄の命に従容として礼をするだけだった。 俯いた格好では、その黒髪がきめ細かな簾のように顔を隠してしまって表情を窺うことができない。 ――――― もし、頭を垂れたその下で歯を食いしばっていたら……。 そう思うと、私は言いようのない胸の痛みを覚えた。 *** 「……兄上は、いよいよ周兄を疎略に扱われるようになった」 私は、思わずポツリと零した。 場所は、張紘の執務室である。 街で取引される品目について、報告をまとめている最中だった。 「何故でございましょうな?」 机に向かう張紘が、振り向かずに応じる。 それで、私はちょっと吃驚した。 張紘がそんな風に私の呟きに返すことなど無いと思っていたからだ。 「……わ…解りません……」 私は手にしていた書簡をぎゅっと握った。 思い当たる節ならば、ある。だが、それだとは思いたくなかった。もし『それ』ならば、原因は私になってしまうのだ。 張紘はふいに筆を置いた。フム、と一度考えるように顎の髭をさすると、私を振り返って見る。 そして、唐突に言った。 「私をな、殿に引き合わせたのは、他ならぬ公瑾殿なのですよ」 「……はい、聞いております」 返事をしながら、何を話し出すのだろう、と私は思った。 すると、張紘は何度か頷く仕草をしてから再び口を開く。 「しかし、名こそ耳にしておりましても、公瑾殿と私は面識がございませんでした。公瑾殿は、殿に『私と天下を論じてみよ』と申し上げたそうな。それで殿は、御自身で私に会いに来られた」 「そうなのですか。私はただ単に、『周兄に紹介された』としか……」 「殿はその時、公瑾殿のこともお話しなさいました。―――『これ以上の朋はいない』、と」 「はぁ……」 私は俯いた。 周瑜を評す兄の姿、――― それは容易に思い浮かべることができる。 今でこそ私は『朋友』とは違う姿の二人を知っているけれども、そうでなければ彼らは『朋友』そのものだった。 「私はその時の殿のお顔を覚えております。公瑾殿と御一緒の所を拝見しました時は、納得したものでございますよ。私に天下を論じなさる時とはまるで違ってらっしゃった」 張紘はそこで一旦言葉を区切った。 昔話が過ぎたと思ったのだろう。軽く息をつき、木簡の束に振り返ると、これで終わりだ、と言う様に一言付け足した。 「ですから非常に不思議でなりません、現在のご様子は」 張紘は筆を取り、墨を付けて木簡の上に走らせた。 いつもと変わらず淡々と仕事をこなしているように見える張紘にでさえ、兄たちの影響はあったのだった。 私は周瑜に謝ることにした。 何故なら、二人のことを思えば思う程、不仲の原因は私だと感じるようになったからだ。 だって、それ以外に心当たりはないし、他の理由なら兄たちも原因を殊更隠しはしないだろうと思う。 それに周瑜は、兄との関係を知られたことをとても気にしていた。 『今後は一切、この様なことは無い』と言ったのは、つまり『以後兄との関係を断つ』ということじゃないだろうか。 それで周瑜がその通りにした為に、兄は怒ったのだ。七日の間は、周瑜の躊躇った時間なのかも知れない。 ――――― そんなつもりじゃなかった。 私はただ自分の知った事実に驚いただけで、それ以上の感情は無かった。 だって、私がとやかく意見する事柄じゃないだろう? ただ、あの時は衝撃が大きすぎて、一人では耐えられなかった。だからあんな風に、よりにもよって周瑜本人に言ってしまったのだ。 もし彼の行動が私を憚ってのことなら、私は早急に謝らねばならない。 決して二人を責めているのではない、と。 決して二人の関係を嫌悪してはいないのだ、と。 私にとっては二人とも大事な兄だから、仲良くしていてくれるのが一番なのだ、と。 そう、考えていた。 誰何して入った執務室はよく整理されていて、部屋の主の性格をそのまま映しこんだようだった。 「やぁ、仲謀殿。何用かな?」 私の訪いを快く迎え入れる周瑜の頬には、すでに綿布は無い。 腫れは数日で収まり、今は鬱血だけが名残を見せていた。……痛々しい名残ではあるが。 「書簡をお持ちしました。張子綱さまからです」 私は手にしていた書簡を差し出した。 単なる口実だ。 「ありがとう。……子綱殿とは、気が合うか?」 周瑜は書簡を受け取り、すぐに紐解いて机上に広げた。 挨拶程度の質問を口にしながら、考えるように顎に手を添え、書簡を眺める。 「はい。よく学ばせていただいております」 私は答えると、去ることもせずにソワソワと立ち尽くした。 謝ろうと思って来たは良いのだが、今になって何と切り出したら良いか悩み出してしまったのである。 すると、周瑜はそんな私を鋭く察知したのか、書簡に視線を落としたまま言った。 「――― 仲謀殿のせいではない」 「……周兄?」 心を見透かされたような言葉に、私は驚いた。 しかし、彼は淡々と続ける。 「私の態度が急に変わったものだから、機嫌を損ねているのだ。何、時が経てば自ずと収まるだろうて」 主語が『兄』だということは、すぐに解った。 「は、はぁ……」 私は曖昧に頷き返した。 何も言わないのにその話題を出すということは、つまり、不仲の原因はやっぱり『それ』だったということで、私の予想は的中したということだ。 それで、私はここぞとばかりに口を開いた。 「…で、ですが、私はやはり余計なことを言ったのだと思います。愚行を、お許し下さい。……私は、兄上と周兄が仲の良い方が好きなのです」 「……仲謀殿…」 「わ、私は吃驚しただけなのです、本当に。未熟者なばかりに、周兄に言わずにおれませんでしたが、…その、気持ち悪い、とか、絶対に思っていませんから!」 何か言おうとする周瑜を遮って、一息に言い切った。 私は何とか許して欲しかったのだ。 だが周瑜は、溜息を吐いてこちらに振り向いた。 「――――― 仲謀殿、それは勘違いだ」 それは呆れたような、少し怒ったような声音で。 「私自身、良くない関係だと思っていたのだ。だが、自分では歯止めが利かなかった。……言ってみれば、仲謀殿はきっかけに過ぎぬ」 きっぱりとした口調に、私はグッと詰まる。 周瑜は本気で兄との関係を断っていたのだった。 彼は、笑った。 「ふっ、大丈夫だ。事実、私たちは『親友』としての時間の方がずっと長いのだ。まして、相手に困っているわけでもなし……」 まるで何でもない事のように、軽く言う。 それが反って苦しかった。 周瑜は、本当に辛い時はわざと辛くない振りをして、むしろ自分を欺こうとするから。 私は諦められなかった。 何が何でも考え直して貰いたいと思った。 「ですが、兄上はその様にお考えになるでしょうか?」 食い下がるように言うと、周瑜の表情が一瞬だけ止まる。 「……考えるよう仕向ける。それは追い追いやっていく。だが今は時を置くより他あるまい」 少し遅れた返答だったが、言葉ははっきりとしていた。 「…周兄、でも…」 「仲謀殿、もう止めよう」 今度は、私が遮られる番だった。 「……あなたなら解ってくれると思うが、これは私と兄君との問題だ」 一度こうと決めた周瑜は、にべも無く言い放った。 私は、はかばかしい成果もなく周瑜の室を追い出されることになった。 周瑜も外に用事ができたようで、殆ど一緒に廊下に出る。 すると、丁度こちらに歩いてきた人物とかち合った。 「…兄、上……」 目の前にいる人物が兄だと判ると、どうしてか私の背に冷や汗が流れた。 しかし兄の方はというと、私がいるのを見止めるとパッと普段の楽しげな表情に変わる。 「おぉ、権。そんなところで何してんだ?」 「そ、それは、あの…」 「子綱殿からの書簡を届けてくれたのだよ、伯符」 どもってしまう私を、後ろに立つ周瑜が素早く引き継いで言った。 「…ふぅん…」 私に向いていた視線が周瑜の方に向かうと、兄の目はすっと細められる。 「……私に、何か?」 半ば挑戦的に、周瑜は訊ねた。 変に身構えてしまっているから、そうなってしまうのだろう。無造作に脇に垂れている腕の先は、固く握り締められていた。 「そうだな。…ちょっと、怪我の具合を見てやろうと思って」 兄は、冷やかすような口調だった。それは、言っている内容も。 どんなに仕事で顔を合わせることが無くたって食事は一緒にとっているのだから、今朝だって周瑜の顔は見ただろうに。 「…御覧の通りだ」 周瑜は兄を見つめながら、素っ気なくそう答えた。 兄も、周瑜をじっと見つめている。 それはむしろ、互いの出方を見極めようと油断なく様子を探っているのであって、『睨み合っている』と表現した方が良いくらいのものだった。 そして、兄が動いた。 「どれ、よく見せろ」 「なっ!…ちょっ、…おい!」 慌てて怒鳴る周瑜には構わず、兄は彼の顎を手で捕らえて自分の方に上向かせた。 「……痕にはならなそうだな……」 そう言って、しげしげと自身が殴った頬を観察する。 周瑜は苦しそうに柳眉を歪めた。 単に体勢が辛いだけでなく、私の存在を気に掛けているからだろう。 その証拠に、彼は私の方へ視線が向かいそうになる度に目を逸らした。 「…放せ、伯符。もういいだろう」 周瑜は、兄の手から逃れるように首を振った。 しかし兄は、手を離さないどころかとんでもない事を口にする。 「公瑾、もう一発、殴っとくか?」 ――――― 私は耳を疑った。 誰よりも周瑜を大切にしていた兄の言葉とは、到底思えない。 でも、冗談にも聞こえなかった。 周瑜を見る兄の瞳には、今は愛情よりも憎しみの方が色濃かったのだ。 「だってこのままじゃ、討伐から帰ってくる頃にはきれいに消えちまいそうだ」 怪訝な表情を返す周瑜に、兄はそう説明した。 ――――― もし、兄が本当に周瑜を殴りそうになったら、私に止めることができるだろうか……。 私は固唾を呑んで成り行きを見守っていた。 「ん?」 兄は返事を促すように、捕らえている周瑜の顎を揺すった。 周瑜は眉を顰めながら、それに耐える。 そして、答えた。 「…それで気が済むならば、そうし給え」 その言葉を聞いて、兄の口角がゆるりと吊り上がった。 「いいんだな?」 念を押すように、低い声で問う。 ―――――――― いけない! そう思った時には、兄の拳は高々と振り上げられていた。 「兄上!」 私の叫びも空しく、握り締められた拳は勢い良く振り下ろされる。 「!!」 思わず目を瞑って顔を背けた。 だがしかし、想像したような鈍い音は全然聞こえてこなくて ――――――。 恐る恐る目を開けて二人の方を見ると、兄の拳は寸でのところで止められていた。 代わりに、相手を詰る言葉が咽喉から絞り出される。 「……お前は、卑怯だ……」 「伯符…、……!」 兄は、軽く付き飛ばすようにして周瑜を放した。それから振り返ると、お前はこっちだ、と言うように私の肩に腕を回す。 「行くぞ。お前がきちんと出立の準備をできているかどうか見てやる」 「え、あ、あの……、はい」 多少強引に促されて、私は周瑜から離れていった。 廊下の角を曲がり、後ろを振り返っても周瑜が見えない所まで来ると、兄は私の肩から手を離して前を歩き出した。 早足に進んで行ってしまう兄に遅れぬよう、懸命に足を動かす。 そうして後ろに付いて行きながら、私はおずおずと口を開いた。 「あの、兄上、周兄は……」 「気になるか?」 兄はみなまで言わせてくれなかった。 鋭い口調がやっぱり怖い。 それで私の声は、小さくぽそぽそとしたものになってしまった。 「……あの様に、辛く当たられなくても……」 ―――――― だって、私が余計なことを言ったのが、そもそもの原因なのだから。 周瑜の辛そうな顔を思い出して、私はひどい罪悪感を覚えた。 兄は私の言葉を聞き取ったのか否か、暫く無言で歩き続けた。 私を振り返ることはしない。 それは、前を歩き始めた時から一貫していた。 「…………あいつが悪いんだ」 兄はそう呟いた。 苦いものを噛み締めるようなその声は、自身に言い聞かせているようだった。 ――――― どうして、こんな事になってしまったのだろう。 兄は周瑜が好きで、周瑜も兄が好きで、私は仲の良い二人が大好きだったのに、それは全部崩れてしまった。 ――――― 私の所為だ。 全部、私の余計な告白から始まった事なのだ。 胸の内に、激しい後悔が押し寄せていた。 続く |