言わぬが花


四、



  山越討伐は予定通り行われた。


  私は兄の傍に侍り、討伐軍の一角を成していた。
  出立前に適当な肩書きと人夫とを与えられたが、それは形に過ぎない。
  兄に言わせてみれば、『お前に軍功は期待していない。俺の横で、俺の戦をよく見ていろ』だそうだ。
  今回の相手は、元々無頼者の集まりのような賊徒だった。集団の強さという点において、孫軍の足元にも及ばない。
  山越は、あるいは討たれ、あるいは蹴散らされて為す術も無く潰走した。
  深追いはしなかった。頭目の首級を上げることができたからだ。
  やがて兄が勝利を宣言すると、幾重もの喊声が沸き起こった。
  そういう時の兄は、身内の眼を差し引いても格好良い。生き生きとしていて、他を圧倒する雰囲気がある。
  『覇者の気』、とでも言うのかな?そういうものに、満ちている。
  ここ数日くすぶっていたこともあって、兄のそういう様子は兵士たちの士気を大いに上げた。
  元々その目的で計画されたことでもあるし、討伐は本当の意味で成功したと言えるだろう。


  だが、問題は本営に帰った後にある。
  周瑜との仲が修復されないことには、状況は逆戻りするに違いなかった。






  本営では、既に討伐軍の受け入れ態勢が整っていた。
  入り口では周瑜が整然と隊列を整えて迎え、広間には宴の用意が済ませられていた。
  数刻経つと幔幕の内には兵たちが揃い、呂範の挨拶に答える兄の一声が酒盛り開始の合図となった。
  まさに勝利の美酒である。
  広間のあちこちから、すぐに笑い声が溢れ出た。
  やはり勝ち戦は兵たちの心に効いたようだ。ここ数日の暗く気まずい雰囲気がきれいに無くなっている。
  私もつられて好い気分になり、勧められるままに酒杯を重ねた。


  そうして宴も最初の盛り上がりを見せた頃、戦の間本営に詰めていた幕僚たちがやってきた。
  戦に出なかった分、宴への出席は張昭や秦松、韓当や蒋欽など主だった顔ぶれに限られている。
  無論、その中には周瑜もいるわけで。
  粗野な感じの強い武官に挟まれている所為か、あるいは数日振りに見た所為か、周瑜の上品な挙措はとても目を引いた。
  遅れて広間に入ってきた彼らは、まず挨拶の為に兄の前に並んで礼をした。
  張昭が代表して祝辞を述べると、兄は本営守備の大切さを説き、それを労うことで答辞とした。
  兄の表情は一見して宴の始まりから変わっていないようだった。
  しかし、他ならぬ弟の私には、変化が判った。
  周瑜を目にした途端、兄の手に強い力が篭ったのだ。
  酒杯を鷲掴んだ指は血の気を失って白くなり、力を制限しきれないように揺れていた。
  そして全員が並んで礼し、その中から張昭が進み出た時、兄はやっと酒杯を脇に置き、祝辞に耳を傾けた。
  私は兄の脇に控えつつ、拝跪する周瑜の頭を見つめた。
  美しい黒髪を惜しげもなく地に垂らしている彼は、討伐前と同様、その表情を窺い知ることができなかった。


  ふいに、周瑜が顔を上げた。
  上げると同時に迷わずこちらを見るので、ドキリとする。
  しかし『不意』と感じたのは私の感覚で、実際は答辞が終わり、並んでいた者達が思い思いの場所へ移動して行くところだった。
  周瑜は真直ぐにこちらを向いていた。
  私を見ていたのではない。兄を見ていたのである。
  そして兄も、周瑜を見ていた。
  やがて、空の酒杯が周瑜に向かって突き出される。
  「注げ」
  硬質な、声。
  兄の顔からはもう、笑いが消えていた。
  周囲の空気は、一瞬にして張り詰めたものになった。
  主賓席から遠い雑兵たちだけが、状況を知らずに騒いでいる。
  周瑜は、落ち着いた挙措は変わらず、近くの酒壷を手にすると兄の前まで来て膝を折った。
  壷が傾けられる。
  酒が杯に落ちる音が、やけにはっきりと聞こえた。
  それだけ周囲が二人の動静に注目しているということだ。
  「俺に何か言うことは無いのか、公瑾?」
  酒杯が満たされると、兄はそう言った。
  その言葉で、場の空気が更に緊張感を増す。
  周瑜は傾けていた壷を起こし、酒杯から視線を外して兄を見た。
  酒壷を脇に置き、膝の前に両手を揃えると徐に額づく。
  そして、言った。
  「この度の勝利、心よりお慶び申し上げます。これにて、殿のご威光はさらに輝きを増すことと存じ上げます」


  ―――――――― やった。
  周瑜の言葉を聞いた瞬間、私は思わず手で顔を覆った。
  どうしてこの義兄はこう、頑ななのだろう?
  私にそう思う資格があるのか自信は無いが、その私が思ってしまうほど頑なである。
  そんな他人行儀で丁寧な祝いの詞、兄が期待しているとでも思ったのだろうか?
  いや、むしろ今の兄にとってそれは一番欲しくないものである。それを解っているのだろうか?
  私は爆発を予感して、ちらりと兄を見遣った。
  兄は、だがしかし、周瑜の詞にはまるで興味を示さず酒杯を傾けている。
  それから音を立てて杯を地に置くと、ゆったりと口を開いた。
  「顔を上げろ」
  周瑜は、命令されるがまま顔を上げた。
  その表情は広間に入ってきた時から何も変わっていなかった。嬉しそうでも悲しそうでもなく、驚いても戸惑ってもいない。あえて言えば、真面目な顔だった。
  「お前の言う通り、これは勝利の宴だ」
  兄は、周瑜を見据えて言った。
  「祝いの席に、お前のようなふて腐った顔は要らん。席を外せ」
  その言葉に、周囲が一斉に息を呑んだ。
  宴の出席者を命令で追い出すなど、通常あり得ないことだった。
  ――――― 『辱め』、と言っていい。
  だが、周瑜は些かの動揺も見せなかった。
  ただ常のように丁寧な一礼を返しただけだった。
  立ち上がり、くるりと背を向けて広間の扉へ歩く様子は上品そのもので、違和感さえ覚える。
  周瑜は扉の前で振り返ると、再び礼をして広間から出て行った。




  私は目の前で起こったことが信じられず、周瑜の出て行った方を暫くボーっと見ていた。
  やはり、こんな小さな戦勝くらいで無かったことにできるような問題じゃなかったのだ。
  ――――― だったら、どうすれば良い?
  私は傍らに置いた自分の杯を持ち上げた。空っぽだ。
  それを満たすと、水面に自分の顔が映った。情けない顔をしている。それを、グイと咽喉に流し込んだ。
  前を見ると、幕僚たちと笑い合う兄がいる。
  冷めてしまった場の空気を再び盛り上げるため、幕僚たちの間を自ら肩を叩いて回っていた。
  兄のいる輪からは次々に歓声が上がる。
  それが数回起こると、ようやく宴の雰囲気が戻ってきた。
  けれど、宴会らしい雰囲気になればなる程、私は落ち着かなくなった。
  ……だって、周瑜は今、きっと一人だ。
  「…何故…」
  酒杯に隠れて、私は呟くように零した。
  何故、周瑜は私に知られたくらいで兄との関係を断ってしまったのだろう?
  私は、再び酒杯を満たした。
  ちょっと口を付けると立ち上がり、酔っ払ったように右に左に傾きながら歩く。
  そのまま広間の扉まで行き、更衣に行ってくる、とぶっきらぼうに言うと、私は宴会を抜け出た。






  宴の広間から遠ざかると、辺りはまるで静かだった。
  今の時間、騒いでいるのは広間だけであろう。
  居室のある建物まで来ると殆ど人の影も無かった。
  私は歩き慣れた回廊を進み、周瑜の室を目指した。
  自分が何をしたいのかは、よく解らなかった。いや、二人に仲直りして欲しいのだけれど、どうしたら良いのか、私には解らない。
  だけど、やっぱり引き下がれなかったのだ。




  角を曲がると、周瑜がいた。
  彼は居室から庭に降りて、立ち尽くしている。
  その様子は、悲しいくらい美しかった。
  黒髪が綺麗に月光を弾いている。真直ぐなその髪が肩に落ち、着物が裾に至るまでの線がひどく妖艶で。
  そうして月光と黒髪と夜の闇の中に、白い肌が映えていた。
  周瑜はすぐに私の存在に気付いた。振り向いて、でも、声は掛けてくれない。鋭い視線だけを向けてくる。
  「周兄」
  私は周瑜を呼んだ。それは思いの外、勇気の要ることだった。
  おずおずと歩み寄ると、彼が笛を手にしているのに気付く。
  「……楽を奏でていらっしゃったのですか?」
  「いや」
  「……そうですか」
  即答されて、そういえばここへ来るまで笛の音を耳にしなかったことを思い出した。
  そのまま会話が途切れ、周瑜は背を向けて居室へと歩き出す。
  まるで、私になど興味無い、と言う風に。
  「――――― 私に知られて、それが何だというのです?」
  周瑜が階を上り、開け放たれた扉の前に着いた頃、私は言い放った。
  彼の足が、一旦止まる。
  「私は他の者に言い触らしたりしませんでした。まして私は、周兄や兄上を軽蔑したことはありません」
  早足に階の下まで進み出てそう言うと、周瑜は首だけゆっくりと振り返った。
  「……あなたに、知られたこと……」
  漆黒の髪の間から見えた瞳はとても苦しそうで、胸に鋭い痛みが奔る。
  「不幸中の幸い、とでも言うべきか……。つまり、『警告』になった」
  「周兄、それは……?」
  「『危険だ』ということが解った。だから止めた。それだけのことだ」
  周瑜は乱暴にそう言うと、再び背を向けて居室に入って行ってしまった。
  「何が『危険だ』というのですか?」
  私は慌てて周瑜の後を追い、階を上る。
  「今の方が余程『危険』じゃないですか。それとも、軍の士気が落ちるのは『危険』ではないと言われるのですか?兄上たちがこのままでは、いずれ逆戻りです」
  「仲謀殿、それは何とかすると言ったはずだ」
  「ですが周兄……」


  ――――――― ダンッ!


  壁を叩きつける大きな音が響いて、私の言葉は途切れた。
  「勘違いするな……。私はこれ以上あなたと話し合いをする気は無い」
  周瑜は、呻くような低い声で言った。拳は壁に置いたままだ。
  私は、縮こまった。
  彼は、いつもふんわりと微笑んで優しかったのだ。それが、この剣幕だ。壁を叩いて人を黙らせるなど、もしかしたら初めて見たかもしれない。
  「…し、周兄……」
  躊躇いながら声を掛けるが、返ってくるのは沈黙だけだ。
  周瑜は、私の方へは目もくれなかった。
  「……い、嫌です。周兄のその様なご様子、…私はもう見ていたくはないのです」
  私は両手を握り締めて言った。
  「…私は、やはり『私の所為だ』という思いが否めません。これ以上何を言っても駄目だと言われるのであれば、私は……、兄上の所へ参ります」
  「……!」
  やっと、周瑜は驚いた風に振り返った。
  そして苦しそうに口を開く。
  「…伯符は、何も知らない。……何も、悪くない…」
  「ならば、知らせます」
  私は、自らの意志を示すように扉の方へ体を向けた。
  「!……仲謀殿!」
  周瑜は半ば叫ぶように私を呼んだ。




  ――――― 瞬間、体が浮いた気がした。
  それはすぐに、背中に奔る痛みによって打ち消され、その衝撃のために私は一時的な呼吸困難になる。
  気が付くと目の前には天井があって、私は自分が突き飛ばされて床に転がったということを理解した。
  「仲謀殿、大丈夫か!?」
  声の方を向くと、周瑜の心配そうな顔が覗き込んできた。
  私は余程派手に転がったらしい。突き飛ばす力はそれなりに強かったようで、床に背を打った後も足が宙高く浮いたように思う。
  起き上がろうとしたが、その前に胸倉を掴まれ引き起こされた。
  私を突き飛ばした本人、その人の目線まで引っ張り上げられる。


  「俺に何を『知らせる』って……?」
  それは低く、威圧的な声音で。


  「兄…上……」
  僅かに爪先立ちになる体勢で、私は私を突き飛ばしたその人を見定めた。
  そこには、見るからに怒った兄がいた。
  「何を知ってるってんだ、ぇえ?」
  兄は迫るような勢いで私に問うてきた。
  今まで鬱憤が溜まっているせいか、かなり本気の瞳だ。怖くて、体が震えてくる。背中には、冷や汗が流れていた。
  「……ご、ごめんなさい…兄上…」
  「何が『ごめんなさい』だ!?はっきり言ってみろ!!」
  「やめないか、伯符!」
  怒りを増した兄が私を乱暴に揺すり始めたのを見て、周瑜が制止の声を挟んだ。
  「うるせぇ!お前が何も言わないから、俺はこいつに訊くしかないんだ!……それとも何か?お前が始めから説明してくれるってのか!?ずっと黙りこくっていたお前が!?」
  その畳み掛るような問いに、周瑜は詰まった。
  どうやら周瑜は、本当に何も告げていなかったようである。
  兄は一度舌打ちすると、再び私に振り返った。
  「何なんだ、権?言えよ」
  「……わ、私が、余計なことを…」
  「仲謀殿、それは違うと言った筈だ」
  「公瑾!」
  兄が声を荒げたが、周瑜は引かなかった。
  それどころか兄に向き直ると、冷静に言葉を繋いだ。
  「――――― 伯符、仲謀殿は私たちのことを知ってしまったのだよ」
  「…………何?」
  周瑜の言葉を聞くと、兄は一瞬怒りを抑えた。そして、次第に訝しげな顔になる。
  「どういうことだ?」
  「その前に放してやれ。この体勢で話を続けるのは、些か辛かろう」
  周瑜は兄の腕に軽く触れて、私の胸倉を放すよう促した。
  私はつま先立ちから解放され、緩んでしまった袷を控えめに直した。


  「……それで?」
  兄は腕組みして訊ねた。手を出さないことの表れである。
  「私たちの関係を知ってしまった。それを、仲謀殿は私に言ったのだ」
  そこで、兄の視線が問うように私に向いた。
  私は頷いた。
  「私はひどく動揺したが、すぐにそれが仲謀殿で良かったと安心した。仲謀殿なら、他人に言い触らすことはしないだろうし、君への敬いも、そう簡単には失くさないと思ったからだ」
  周瑜は一旦言葉を切った。
  兄はまだ理解できないと言う様に眉根を寄せている。……理解できないのは、私も同じだった。
  「……いいじゃねぇか。何が問題だ?」
  「解らないのか?『仲謀殿』に知られたのは、運が良かったのだ。他の者に知られていたら今頃どうなっていたと思う?」
  「……公瑾…」
  「老臣たちに知られたら?潔癖な諸官が気付いたら?雑兵たちの噂になってしまったら?」
  問い詰める周瑜の瞳は、真剣だった。
  その言葉は、次第に加熱していく。
  「君の声望に傷が付く。そうやって幕僚や兵たちの心が離れれば、軍は立ち行かんのだぞ。傷付いた名では、再起も望めまい。……もし、…万が一、私との事で君が兵を失うようなことがあれば、私は……私は、耐えられぬ!」
  言うと、周瑜は状況を想像したように顔を青ざめさせた。
  両の手が、自らを締めんとするように首元で震えている。
  兄は周瑜の様子を目に留めていたが、やはり納得できないように答えた。
  「…けど、それは今までだって解ってた筈だろ?人前ではちゃんと控えてたじゃないか」
  「それだ、伯符。私たちはきちんと気を付けていた。それでも、仲謀殿に知られてしまった。小さな手違いで簡単に露見してしまうことなのだ。まして、何処ぞの間者に知られぬ自信があるか?」
  「…それは…」
  「事実が存する限り、露見の可能性は拭えぬ。そして私は知られるのが怖い。知られることで、軍が崩れる事が怖いのだ」
  周瑜は、とても辛そうな瞳で兄を見つめた。


  正直、私は周瑜の言ったようなことは全く考えていなかった。
  二人の関係は、確かに外聞の良いものではないから、周瑜は私に知られたことを恥と感じたのだと思っていた。あるいは、それが兄の恥とならないようにしたかったのだと。
  しかし、周瑜は軍のことまで考えていた。
  主君と重臣が関係している軍と聞いたら、兵たちはどうするだろうか。
  幕僚たちならばいざ知らず、一般兵らは単に飯にありつくために従軍している者も少なくない。主君に対する忠誠など、高が知れていた。妙な噂によって兵たちが離れていくことは、決して非現実ではないのだ。
  私はどうしようもなく己の愚かさを呪った。
  謝罪の言葉さえ躊躇われ、ただ見つめるだけになっていると、ふと目を合わせた周瑜は自嘲めいた笑みを口の端にのせた。
  ――――― そして。
  そして、そんな周瑜は、次の瞬間に兄の腕に捕らえられていた。
  「…っ、伯符!」
  「駄目だ、解んねぇ…。いや、言ってる内容は理解できる。けど、納得できねぇんだ」
  兄は、もがく周瑜をいとも簡単に押さえ込んだまま、思慮深げに言葉を紡いだ。
  「そりゃ、大っぴらにできる事じゃない。でも、本当は誰かに文句言われる筋合いも無いと、俺は思う」
  それは素直に頷ける言葉だった。
  周瑜の論も私には頷けるものだったが、兄の言い分もすごく解る。……兄弟だからだろうか?
  見ると、周瑜も既にもがくのは諦めて、考え込むように俯いていた。
  「それにお前、俺に対する感情はそんな押し殺していられるものなのか?」
  兄は訊ねた。
  私はちょっと吃驚する。兄は、大胆な時は想像を絶するほど大胆だ。
  問われた周瑜も少なからず驚いたのか、言葉に詰まって向こう側を向いてしまった。兄に抱き締められているから、それは何となく意味深な仕草に見える。
  「――――― 俺は無理だな」
  長くは待たず、兄はそう言った。
  とても自然に両手が持ち上がって、周瑜の頬を包み込む。
  「公瑾、俺は人に隠すことは苦にならない。……だが俺を拒むことは許さない。絶対に、だ」
  「…伯…符……」
  周瑜の瞳が揺れた。
  兄の強い強い瞳に見入られて、おそらく心の中を掻き乱されている。


  ―――――――― すごい。


  それが、私の素直な感想だった。
  だって、私一人じゃ、周瑜は話しすらまともに聞いてくれなかった。それが、兄にかかれば頑なな決心を揺るがせてしまうのだ。……だからこそ、周瑜は兄には何も言わないでいたのかも知れないが。



  私は安心した。
  この場はもう兄に任せて大丈夫だ、と何となく思えたのだ。
  それで、兄が再び周瑜を抱き寄せて私に一瞥くれたのを合図に、私はそっと室を出て行った。
 



  ***



  翌日。
  あれから兄と周瑜の間でどんな話し合いが為されたのか知らないが、とりあえず兄の満足のいくように終わったようだった。
  朝起きてきて顔を合わせると、二人は以前の通りに、それこそ何も無かったかのように仲良く会話し始めたのだ。
  仲悪くなるのが突然であれば、仲が良くなるのも突然で、寵臣たちは最早呆れるしかなかった。
  でも、呆れてはいたけど、皆どことなく安心して、嬉しそうだった。


  午後。
  庭で兄と周瑜を見かけた。
  討伐に出ていた軍は、今日は休みだった。
  兄も私も、邸でゆっくり過ごしていたのだが……、あれ、周瑜はどうしてここに居るのだろう?……兄が呼び付けたのかな?
  立ち止まって見ていると、丁度こちらを向くように立っていた兄の視線がチラリと私に向いた。
  ――――― 気付いた、かな?
  視線は、一瞬私の居る方向を通過した、という程度のものだった。
  周瑜は、おそらく私に気付いていない。彼は兄と向き合うように立っているから、私には完全に背を向ける格好になっているのだ。
  ――――― まぁ、楽しそうだからいいか。
  二人の様子に心底安堵して、私は足の向きを変えようとした。
  と、その時 ―――――― 、


  「……!」
  ――――― ふわりと顔を上げた周瑜の顔に、兄の顔が重なった。


  もちろん、周瑜が大人しくしている筈はない。
  何やら言い募って兄を殴ろうとするが、しかし、それらは全て兄の腕に抱きとめられてしまった。
  私は呆れるし、恥ずかしいしで、その場に立ち尽くす他なかった。
  そしてそんな私に、兄は、自らの胸に周瑜を押さえ付けながら、ひらひらと手を振って見せたのだった。






  ――――― そう。
  周瑜は兄の前だと、本当に美しくなる。
  真面目な顔や冴えた声ではなく、心のままに笑い、戸惑い、怒る。
  それはまるで、咲き乱れた花のように。


  ――――― しかし、それは兄の前だけでいい。
  誰にも言う必要はない。


  周瑜は兄の花なのだから。





 了

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