錦上花声




1、




初めて楊家の扉を叩いたのは、半年前のことだった。
楊家は妓館だ。
南との交易が盛んなこの城(まち)で、楊家より立派な朱塗り門を見ることはできない。
抱える妓女は十数人。
そのうえに、数名の楽士と男娼とがいた。

覚悟はしていた。
紫瑩(シエイ)という名を与えられ、色鮮やかな衣に身を包んだ姿はどこからどう見ても娼に違いなかった。
それでも屈辱的な仕事をしなくて済んだのは、偏に音楽的才能に恵まれていたからだ。
物と人が集まる城では、南方の楽だけでなく北方や西方のものも好まれる。
弦を弾き、詩を歌う。
笛を吹き、音を和す。
今はそれが生計を立てる術だ。
腕には些かの自信があるし、愛想も良くしているつもりである。
だからなのか、楊家へ来て二三ヶ月もした頃には、『錦上花声』という通り名ができていた。
――――― 錦上に花を添えるような声、だそうだ。



周瑜は窓辺に座っていた。
宛がわれた部屋からは、城の様子を広く見渡すことができる。
遠くには県境となる山々も見えた。
頬杖をつきながら、それらをぼんやりと眺めるのが現在の日課だ。
緩い風が、時折外から舞い込んできては前髪を揺らしていった。


『紫瑩』、と。
そう呼ばれる度、失われるものがある。
『錦上花声』と、もてはやされる度に忘れていくことがあった。
ここでは誰も周瑜を『周瑜』と呼ばない。
まして『公瑾』という字は、誰も知らない。
最後に字を呼ばれたのは一体いつの事だったか。
思い出そうとして辿り着いたのは、別れ際の親友の叫び声だった。
周瑜は反射的に目を閉じる。
耳の奥に、今も鮮明に響く声。
その声は、ふとした折に聞こえてきては、胸を掻き乱していった。
とても辛そうで、酷く真剣で、聞いている方こそ身を切られる思いがする。
いつも冗談交じりの親友が、あんな風に叫ぶことがあるとは知らなかった。

胸の内を、声が駆け巡る。
それが何処かへ鎮まっていくまで、周瑜はただ耐えるほかに無かった。




「紫瑩さま、贈り物が届きましたよ」

静寂を破ったのは、まだ声変わり途中の声だった。
窓の桟に凭れたまま胡乱な返事をやると、衝立の向こうから箱を抱えた少年が現れる。
「侯の旦那さまからですよ、『また』」
少年は周瑜を見ると、ちょっと笑った。
『紫瑩』付きの小童で、『小菊』と呼ばれている少年だ。
本名は凌統、字を公績という。
歳の割りにほっそりとしていて、一束に纏めた癖の強い髪と勝気なこげ茶の瞳が印象的だった。

「紫瑩さまは客取りをしないって何度も言ってるのに…。あの人も身の引きどころを知らない様です」
凌統は、運んできた箱を難儀そうに卓の上に置きながら言った。
その独特のひねくれた物言いが、周瑜は嫌いではない。
結局は家族思いの優しい子なのだ。
守りたいものがあるから、斜に構えてしまう。
ただそれだけだ。
「言うじゃないか、小菊」
周瑜はふらりと立ち上がった。
ぼんやりと後ろ髪を引かれる思いを感じつつ、窓際を離れて卓に近付く。
「…では、お前なら『身の引きどころ』が判るというのか?」
にこりと笑みを含んで問うと、凌統は躊躇いなく答えた。
「俺ならこういう未練がましいことはしません」
「成程」
周瑜は笑った。
大真面目な顔をして言うのが、年齢と不釣合いな愛嬌を見せていた。
「しかし、助かる『未練』だ。……あぁ、新しい衣裳だ。侯殿の『未練』のお陰で、私は着る物に不自由しないな」
箱を開けると、中身は藍色の上衣だった。
やや派手だが、一目で高価と判る品だ。
「紫瑩さまがそう言われるなら、俺には何も言うことは無いです。侯の旦那さまの下心が憐れなだけですよ」
凌統は大人びた様子で溜息をつく。
その様子は何ともおかしく、やはり愛嬌があった。


「…それと、もう一つ」
と、凌統は広げた上衣を丁寧に畳み直しながら見上げてきた。
「楊叔父がお呼びです。お話があるそうで」
「楊叔父が私に?」
凌統の首がコクリと縦に揺れる。

『楊叔父』というのは、妓館の主人のことだ。
大抵、主人と娼たちは擬似的な家族関係を結ぶので、このような呼び方をする。
その『楊叔父』と改めて話すことなど、心当たりは無かった。

どことなく胸に不安が過ぎったが、周瑜は凌統に部屋を任せ、足早に階下へと向かった。








――――― 半年前、周瑜は突如として莫大な借金を抱える身となった。

兄が、莫大な借金を残して死んだのだ。
都で出仕していたはずの兄。
それが突然、『死んだ』という報せが届き、同時に借金の存在も明るみに出た。
最初は信じられなかった。
兄は周瑜が七歳の時に出仕が決まり、本家のつてを頼って上京して行った。
何度も手紙のやりとりをし、時には帰郷したり、逆に都へ遊びに行ったこともあった。
その時は、兄の身の回りに不穏なものは感じなかったのだ。
だが死の報せは、どうやら誤報ではなかった。
死だけでなく、借金も確かに存在していた。
それも、かなりの負債になった状態で、だ。
――――― 何故こんな事になったのか。
兄は、決して浪費家ではなかった。
調べると、兄が友人の借金を背負っていたことが判った。
そしてその友人も、兄が死んで一月も経たぬうちに死んだ。自殺だった。

一方、借金の請求は回りまわって周本家までやって来た。
本家の対応は、考えうる限り最悪だ。
死後である兄を、周家から追放したのだ。
理由はある。
兄は、その死にあたって皇帝を侮辱したという汚名を着せられていた。
借金だけならまだしも、皇帝を侮辱したとあっては例えそれが根も葉もない噂だとしても本家の擁護は得られない。
兄の遺体は、都からも本家からも離れた土地に、捨て置かれるように埋葬されたのだった。


兄が追放されることを知った時、周瑜は兄と縁を繋いだままでいる道を選んだ。
幼い頃の記憶は忘れがたかった。
歳の離れていた兄は、周瑜を溺愛してくれたのだ。そんな兄を、周瑜も好きだった。
絶対に、兄を天涯孤独にしてしまいたくなかった。
だが兄と縁を切らないならば、借金を背負わなければならない。
そして本家の後ろ盾が無い以上、まともな返済方法は無い。
周瑜は、半ば売られていくように揚州の片田舎に落ち着いた。
そこで数年間芸者に身をやつし、借金を払いきることにしたのだ。

全て、一人で決めた。
誰にも相談などしなかった。
全て準備を整えた上で、孫策に別れを告げてきたのだ。







続く


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幕間小話:
 ここまでで既にたくさんの自分設定(特に名前)がありますが、パラレルなので許してください。
 旧サイトでは途中まで更新しておりまして、今サイトでの修正&完結を目指しています。
 ハッピーエンドの予定です…よ?

 (2008.09.04 改稿/2008.09.14 再改稿)