錦上花声




2、




「……それは、本当ですか?……」
石造りの壁に反響する声が、ひどく上擦っていた。
目の前には気怠げな表情の楊主人が座っている。
周瑜に向けた視線をピクリとも動かさず、返事するまでもないと言うように黙っていた。
楊主人が嘘をつく必要など無い。
それは判りきっていることだったが、問わずにはいられなかった。

「証文を見るかい?お前の場合、自分で確認した方が良いだろう」
主人は台帳から数枚の紙片を引っ張り出すと、卓上に示した。
周瑜はそれを手にとって広げ、紙の上に走る字を丁寧に眼で追っていく。
そうして全て見終えた後、途方に暮れたように深い溜息を吐いた。
「…あらためました。確かに、兄のものです」
主人は周瑜の言葉を聞くと筆を取り、証文と同じ文面を木簡に書いていく。
それは後々不正が行われることを防ぐためだ。
木簡の最後には楊主人と周瑜の署名がなされ、保管は周瑜がする。
もし最初の契約と異なる不正がなされた時は、これを盾に主張するのだ。
だが今は、板の上の文字こそが周瑜の責務を主張していた。


兄の新たな借金が見つかった。
亡くなったとき明らかになった金額と、ほぼ同額である。
――――― 何故、今になって。
無意識に唇を噛み締める。
細心の注意を払って書面を検めたが、署名は間違いなく本物だった。
どうやら、同じ条件の借り入れを異なる人物に対して行っていたようだ。
周瑜は墨の乾くのを待たず、木簡を広げたまま取り上げた。
陰鬱な気分で確認の声を出す。
「…約束は4年でした。それが8年になるわけですね」
借金返済のための、主人と交わした契約期間のことだ。
今はまだ、ここへ来て半年しか経っていない。
残り、7年と6ヶ月である。
だが楊主人は首を横に振り、恐るべきことを口にした。

「8年はかからねぇ。だが、お前も客取りをする時がきたようだ」

一瞬、世界が暗くなる。
「……楊叔父、それは……」
惑うように口を開くが、楊主人がそれを遮った。
「紫瑩(シエイ)、今のお前の稼ぎは、芸者としては大したもんだ。だが今度の借金が加わると、ちょっとやそこら頑張ってもせいぜい利子を払うことしかできねぇ」
「そんな…。ならば、宴の幕を増やせば…」
「悪いがそれは無理だ。お前以外にも、楽で食ってる奴はいる」
「しかし、私は…」
「なに、客を取ればお前の稼ぎは大幅に増える。上手く捌ければ、8年と言わず5,6年でここを出て行けるかも知れねぇぞ」
周瑜は絶句した。
今更客取りを始めるなど、すぐに頷けることではない。
それは確かに、娼館に入るとなった時、一度は覚悟を決めた。
だが楽奏でるだけでもやっていけると判って、ホッと胸を撫で下ろしていたのだ。
それを、また覚悟を決めろというのか。
「――――― 何も、今日に明日始めろというわけじゃねぇさ」
楊主人が溜息混じりに言った。
「最初の客はお前が決めて良い。それがうちの方針だ」
反射的に、周瑜は顔を上げた。
眉根が寄っているのは自分でも判る。
だが主人は気にした風でもなく、淡々と言葉を続けた。
「一月やろう。その間、よく考えて決めな」
その物言いは、まるで『他に方法は無い』と言っているかのようだった。





部屋へ戻る足取りは重かった。
客取りをしなければならないという事実が、周瑜の両肩に重く圧し掛かっていた。

――――― ついに、堕ちるか。

知らず、暗い笑みが浮かぶ。
楊主人から与えられた時間を、有意義に使えるとは到底思えなかった。
きっと、堕ちる時を先延ばしにするだけだろう。
ならばいっそのこと、贈り物をくれる人物の中から適当に指名してしまおうかとも考える。
貢がせるだけ貢がせて、5,6年で楊家を出て行く。
それも一つの選択肢に違いない。
だが、どこか現実味が無いように感じられた。


自分の部屋に着くと、周瑜はやや乱暴に扉を開けた。
多少大きな音が出た所為か、中に居た凌統が驚いて振り返る。
「紫瑩さま!早かったですね」
凌統の手には、一度使用された竹簡の束があった。
窓から程良い距離には文机が置かれていて、その上に筆や墨摺り道具が揃っている。
周瑜は、静かに頷くと文机の向かいに座った。
休みの日はしばしば凌統相手に文字や計算を教えているのだ。
これまでに教えた文字を復習するよう指示を出すと、ぼんやりと窓の外に目を遣った。
「……何か、あったのですか?」
いくつか文字を書いた後、凌統はおずおずと尋ねてきた。
見ると、大きなこげ茶の瞳が心配そうに周瑜を見上げていた。
真直ぐな子供の瞳だ。
混乱して波立っていた気持ちが、どこか緩やかに鎮まっていくのを感じる。
周瑜は、ほんの少し沈黙した後、口を開いた。
「…いや、私もとうとう客を取らねばならなくなった様だ」
何気なさを装って笑うと、凌統の大きな瞳が更に大きくなる。
「どういう事ですか?」
「早い話が、借金が増えたのだ。今の稼ぎでは足りぬらしい」
「…そんな、でも紫瑩さまは……」
「私は元々娼だ。これまでが普通ではなかったのだよ」
それはまるで、自分に言い聞かせているような台詞だった。
対する凌統はひどく戸惑った様子で、ただ首をゆっくりと左右に振った。


周瑜は、陽が沈み始めた窓外にそっと目を遣った。
朱に染まった空の下に濃い色の山々が聳え立ち、そのずっと向こうに舒の城(まち)がある。
――――― 今の自分を見たら、孫策は一体どんな顔をするだろうか。
派手な衣装を纏い、化粧をして、客のために歌を歌う。
そんな自分を見て、孫策は嘲笑うだろうか。
あるいは、義兄弟として恥だと怒るだろうか。
それとも、その両方か。
否。
と、周瑜は胸の内でその考えを打ち消した。
孫策の反応を予想するなど、馬鹿馬鹿しいこと極まりない。
周瑜は、絶対に孫策に会わないことを期してこの城と娼館を選んだのだ。
人づてに居場所が漏れるのを恐れて、本家はもちろん、母親にさえ教えなかった。
まして孫策には、義兄弟の契りを結んだ親友が揚州の片田舎で男娼となっているなど想像もできないだろう。
有り得ないことを考えてみても、意味などまるで無いのだ。

溜息が一つ、零れる。

何をそう、あの親友のことばかり考えているのか。
舒の城にはそれ以外にもたくさんの事があったはずだ。
今は本家へ行ってしまった母や家人、そして亡くなってしまった兄。
教えを乞うた老師に、机を並べた同学たち、城の人々。
思い出そうとすれば思い出せることはいくらでもある。
だというのに、気付くと孫策のことばかりが頭の中を過ぎっていた。



「暗くなりました、紫瑩さま。灯を点しましょう」
暫くして、傍らに凌統の立ち上がる気配がした。
いつの間にか室内には闇が濃くなり、空の朱も既に暗い青の色に圧されている。
周瑜は静かに頷くと、舒の城にも夜の帳が降りようとしていることを想った。






続く


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(2008.09.14 改稿)