起、
辺り一面が、緋色に染まった。
未だ黎明は訪れていないにもかかわらず、燃え盛る火柱が鮮やかに、そして目を焼くほどの強さで世界を映し出していた。 敵艦隊に火が点いた時、自軍の者は大将から兵卒に至るまで歓喜の雄叫びを上げた。 炎が江に浮かんだ夥しい数の船団を一息に呑み込んでいく様子は、兵たちの心を惑わし、死への恐怖をも忘れさせる。士気という範疇を超えた衝動が、大軍の差をものともせず打ち払っていった。 皆、無我夢中だった。 己も例外では無い。頭の隅に軍令を聞き定める幾許かの理性は残していたが、それとて根性でやっていたことかも知れなかった。 あの時見上げた、いっそ神々しいほど紅い岩壁は一生忘れることが無いと思う。 そして奇しくも同じ刻、隣でその岩壁を見ていた人物 ――― そもそもこの戦を斯くの如く鮮やかなる勝利へと導いた総司令官がふと呟くのを、己は聞いた。 「……赤壁、か……」 噂に違わぬ総司令官の美貌は、炎に照らされて凄絶さを増す。 その容姿で、その武で、その才で、軍を完璧に掌握する彼を、陸遜は己の理想として尊敬していた。 「失礼致します、周都督様」 陸遜が挨拶を述べ拱手しながら営舎に入っていくと、そこには常の白い顔を一層白くした上司がいた。 軍医の承諾を得られなかったのか、牀台の上で、上体だけ起こしていた。 その様子を目の当たりにすると、あの炎の世界での一戦がまるで何年も前のことのように思われる。 赤壁の戦い以後、呉が江陵を奪い取るのには予想以上の長い期間を要した。 その間に上司は流れ矢を左鎖骨下に受け、それ以来彼の体調は悪化への一方向を辿っているのだ。 これが、あの最盛期の曹操をも退かせた武将の後の姿かと思うと、陸遜は、通常浮かべている人好きのする笑みが消え失せ、無表情になってしまうのを止められなかった。 「早いな。変わりはなかったか、伯言」 線の細い見映えとは異なり、周瑜は上司らしくしっかりとした口調で話した。 「はい。陣中の二万は皆、いつ襲撃が来ても対応できます」 陸遜は、彼の瞳を意志の強い視線でもって見つめ返した。 それを見止めて、周瑜は柔和な笑みを浮かべる。 「お前の瞳はいつ見ても清々しいな、伯言」 その言葉に何と返したらよいか解らず、陸遜は黙したまま周瑜を見つめ続けた。 心の中は戸惑いで一杯だったが、その感情が顔に表れることは無い。 それが易々と表れてしまう様な者が、ここまで残り、のし上がってこられるような時世ではなかった。 「お体は良くなっていらっしゃいますか」 悩んだ末、陸遜はそう問うた。 「是、と言いたいところだが、まぁ、否、だろうな」 たいして気にした風もなく、周瑜は微笑んだ表情のまま答えた。 周瑜は時折血を吐く。それは本人にすら『死』を思わせるものだろうに、何故こう飄々と構えて居られるのか、陸遜は不思議だった。 もしや周瑜は、己が死ぬことなど在り得ないと思っているのだろうか。 「それは困ります。都督様には一日も早く現場の指揮をして頂かなくてはなりませんのに」 「大丈夫だ。幸いにして呉軍には有能な武将がたくさん居る。伯言もその一人だぞ」 そう言われて、陸遜は詰まった。 褒められているのに、何も嬉しくなかった。 「そう、嫌そうな顔をするな、伯言。私は私で、できる限りのことをするより他あるまい」 周瑜はさも可笑しそうな声を上げた。実際、笑っている。 「都督様の計略は、益州を取ることですね」 笑う周瑜を見つめて、陸遜は話題をふった。 「そうだ。あそこは土地が豊かだ。我々の手に掛かれば劉璋などより余程多くの軍を擁すことができる」 「その上で劉備を潰し、曹操に対抗する」 そう言うと、周瑜は一寸苦笑いになった。 「問題は、その時まで私が息をしていられるかどうかだな」 「何をおっしゃるのです」 陸遜が俄に語調を強くすると、周瑜はまた笑い声を出した。 「実際、このところ私が考えることは半分が己の後事の事だ」 「都督様、では先の計略はどうなります」 「無くなるだろうな」 事も無げに、周瑜は言った。 「私の言う計略は、私が描くものだ。私以外の誰にも、実現することはできぬ」 あまりにもはっきりと断言するので、陸遜は再び詰まってしまう。 その陸遜を気にも留めずに、周瑜はぽつりと言葉を繋いだ。 「……あの方の計略が、あの方と共に失われたように、な」 『あの方』という言葉を、周瑜は時々口にした。 そういう時の周瑜は、どこか虚ろな瞳をしている。 その視線の先に何があるのか、陸遜は最近知った。 ――――― 囚われている。 自然と、陸遜の周瑜を見つめる目が細められた。 出会った当初から曹操との対峙の最中にあってまで、強く生命力に溢れて見えた周瑜は、今はまるで、生ける死者のように陸遜の目に映った。 その時、幕を開いて中に入ってきた者がいた。 「公……都督殿、失礼致します」 その者は、周瑜の前に座す陸遜を見止めて、咄嗟に呼び名を変える。 今の今まで調練に勤しんでいた風情で営舎に表れたのは、呂蒙であった。 「『公瑾』と呼んでくれて構わぬ、子明」 「は、はぁ、……済みません」 周瑜の微笑に、呂蒙はやや恥らって顔を赤くした。 それから咳払いをして居住まいを正すと、毎日の調練の内容や結果、改善点などを報告する。 特に退室を求められなかったので、陸遜も隣で呂蒙の報告を聞いていた。 呉軍の中でも周瑜率いる軍勢は、とりわけ精強だった。 それは強兵を揃えているからというより、厳しい軍律が見事に徹底されているからである。 しかも、最前衛というだけあって陣中にはいつも緊張感が漂っていたし、従って調練も生半可なものではなかった。 報告に切がつくと軍医がやってきて、陸遜は呂蒙ともども営舎から追い出された。 幕を出て行く背に、軍医の小言が聞こえてくる。周瑜に無理をせぬよう言っているのだった。 周瑜の血を吐く回数は、気付けば次第に増えてきていた。 「伯言、お前は、今日はもう何もないのか?」 隣を歩いていた呂蒙が、声を掛けてきた。 「いえ、まだ午後に警備兵たちの見回りがあります」 陣中の防衛を総括する陸遜は、そう答えた。 「そうか、それは宜しく頑張ってくれ」 「はい、子明殿」 陸遜は、丁寧な物腰を変えることなく頷いた。 呂蒙は、横野中郎将という正式な地位を与えられていたが、大抵の者には字で呼ばせている。役職名で呼ばれても己だと気付かないから、という理由を聞いたが、どうやらそれは本当らしい。 それはそれとして、字を呼ぶことは呂蒙自身への親しみを湧かせる効果もあった。叩き上げで純朴な気質の呂蒙は、兵たちからの人望が厚い。陸遜も、呂蒙の性格は好もしく感じていた。 「周都督様を、どう思われますか」 不意に、陸遜は問いを発していた。 「『どう』、とは?」 「今の都督様は、風が吹けばそのまま攫われて行ってしまいそうです。私には、そう見えます」 横たわりながら窓の外を穏やかに見つめる周瑜を思い出して、陸遜は言った。 それに対し、呂蒙は少し考えてから口を開いた。 「…………それが、公瑾殿のもう一つの願いであったからなぁ」 まるで、ぼやくような声だった。周瑜のことも、字で呼んでいる。 「我が義父殿には、異名が多々あるのですね」 呂蒙の言葉を聞いて、陸遜は直感的に『風』が『あの方』を指しているのだと悟った。 『あの方』 ――― 先主・孫策 ――― の娘は陸遜の妻であり、孫策と陸遜は義理の親子の関係にあった。義父は、『江東の麒麟児』や『小覇王』などという異名を持ち、その若き日にあっては『孫郎』の呼び名で人々に親しまれていたそうだ。だが、陸遜自身は顔を合わせたことも無ければ、実際にどんな人物なのかも知らない。 「色々と呼ぶ声はあるがな、先代を『風』に例えたのは公瑾殿御自身だ」 呂蒙は、思い出すようにそう言った。 「確かに、誰も追い着けない、江東を駆け抜けた一陣の風のような御方だった」 懐かしむ響きを隠さず言う呂蒙に、陸遜は何も言わず口端を持ち上げて微笑だけを返した。 自分から振った話題ではあるが、陸遜はあまり孫策の話が好きではない。 ――――― 孫策は、死して尚、周瑜を縛っているからだ。 周瑜は病が篤くなるのに比例して『あの方』を口にする頻度が高くなる。 だから、周瑜の病の半分は孫策が原因だと思うこともあった。 孫策は、周瑜を弱くする以外の何ものでもないのだ。 それでなくとも、陸遜は基本的に死んだ者には興味が無かった。 知っておくべきは死者自体ではなく、いまだ生きる者への影響である。 そして通常、その影響は時と共に薄れていく筈なのだ。 故に、陸遜は孫策の話題になると大抵沈黙を決め込んだ。 今も、呂蒙に対して微笑するだけである。 しかし、呂蒙もそれ程孫策の話をしようとはしなかった。 無口ではないが、無駄口を叩く方でもない。 結局、その後二、三の会話を続け、別れ際に簡単な挨拶をするだけで各々の営地に戻っていったのだった。 続く →承へ 小説topへ ← “あとがき”という名の言い訳:
……い、如何でしたでしょうか?
陸遜立志編、「其の暁、灼灼たり〜起〜」でございます。 正直、読んでくださった方々がどう思われるか恐ろしいです。 以降、話を追う毎に陸遜はよりキツく、周瑜はよりイタくなっていきますので、どうぞ心の準備を。(苦笑) というか、何をベースにしてこんな陸遜像が弾き出されたのか今だに甚だ疑問です。 本当に、書いてて「キツい」としか表現しようが無い。 そんなわけで、この後も広い心で読み進めていただけると嬉しい限りです。 それでは、引き続き「其の暁〜」をお楽しみ下さい。 |