其の暁、灼灼たり



承、


翌日、陸遜は午前の見回りを追えた後、部下を五騎従えて調練を見に行った。
見回りの報告に行った際、周瑜に勧められたからだ。
確かに、興味はあった。
調練が物珍しいわけではない。今までずっと周瑜靡下に居り、彼が病に伏すようになってからは守備総括として陣営に張付けだったため、周瑜以外が指揮を執る調練を見たことが無いのだ。
それに、周瑜靡下にいたということは、調練の殆どが水軍のものと言ってよい。だから、騎馬兵が列を成して縦横無尽に駆け回るのは、見ていて少しわくわくするのだ。子供じみた感覚だとは思うが、外に表れねばよしとする事にしていた。
全体が見渡せるよう土地の少し高い場所に移動すると、三万の軍勢が駆け回っているのが判った。
総指揮は、呂蒙が執っている。陸兵は、江陵攻め以前から実質呂蒙の管轄にあった。
目下の兵を見ていると、昨日の呂蒙の報告が適切なものであると解った。
陸遜は兵を見る時、まず己ならこの兵たちをどう切り崩すか、ということから考えた。
その方が、兵の弱点がよく分かる。自軍の兵として見ると各部の確認から始めてしまうので、欠陥がなかなか見えてこないのだ。
呂蒙は兵をよくまとめ、動かしていた。
だが、やはり周瑜の軍とは雰囲気からして違う。呂蒙は、自身で気付いているかどうかはともかく、その人望によって軍を繋ぎとめ、動かしている。上官が下官を指揮している、というより仲間内のまとめ役が互いの信義の下に率いている、という感じである。
周瑜の軍は、もっと鋭い空気が漂っていた。下官は上官の命を聞き逃すまいと常に気を張っていて、軍令が隅々まで染み込む様に行きわたっていた。周瑜が声を荒げる必要は無く、軍全体が当然の如く彼の手足のように動くのだ。あの頃は、引き締まった雰囲気がいつも陸遜を心地良く律していた。
――――― どちらの方がより良い、というわけではない。これは軍の個性だ。
周瑜の軍に合わぬ者が、呂蒙の軍において才覚を発揮できるということもある。無論、その逆も。
陸遜は調練が終わるのを察して、丘を下った。


「伯言、調練場でお前を見るのは久しぶりだな」
呂蒙は近付いてきた陸遜を見止めると、親しみの篭った声を掛けてきた。
「はい、周都督様に勧められました。私も興味がありましたので」
陸遜はそう返しながら、丁寧に拱手した。
「都督殿が、か。それは恐縮だな。伯言、あの丘から見ていて、どう思った」
「騎馬隊の動く様子は、素晴らしいですね」
「本心を言って構わんぞ」
「本心を申し上げているつもりです、子明殿」
そう言って微笑すると、呂蒙は照れくさそうに頬を掻いた。
(……違うのですがね……)
陸遜は、単純に騎馬兵が面白くて感想を言っただけなのだ。呂蒙の腕を過小評価するつもりは決してないが、調練については、思い付いた事はそれなりにある。むしろ、周瑜に勧められて、あれだけ良い位置から眺めていたのに何も言うことがない方が無礼であり、己の無能を曝け出すことにもなるだろう。
呂蒙は周囲に集まってきた兵長たちの報告を聞き、それを解散させてから自身で書簡をしたためた。
それを背後から覗き見ながら、陸遜は調練について思ったことを述べた。
対応策も、思いついた限り述べる。
すると、呂蒙は筆を止めて唸った。
「お前を陣営に篭りきりにさせておくのは惜しいな、伯言」
「傍目に見ていたからこそ気付いたのです、子明殿。もし私が自身で兵を率いていたら、思い付きもしなかったでしょう」
「では、時折見に来るようにしてくれ。このところ意見を言う者が少ないのだ」
「分かりました」
陸遜は、呂蒙が書簡を書き終えるのを待った。
孫権に言われるまで馬鹿にしていた、という噂が嘘と思えるほど呂蒙は勉学に熱心だった。こうして自ら筆をとっているのも、文字の勉強になるのでやっているのだろう。本来なら、書記官の仕事だ。
「待たせたな」
陸遜は自主的に待っていたのだが、呂蒙はそう言った。
供回りに書簡を持たせると、手綱を曳きながら陸遜の方に歩いてくる。
「いえ。参りましょう」
短く返し、相手が先に鞍に上がるのを待って見つめると、何故か呂蒙はぎょっとした表情をした。
「どうなさいました?」
陸遜が尋ねると、呂蒙は気持ち焦って答える。
「い、いや。……伯言、お前は子供の瞳をしているな」
「……どういう意味でしょうか」
呂蒙の言葉は嫌味に聞こえない。文字通りの思いで、陸遜は問うた。
「強い瞳だ。曇りが無く、透き通っている」
言葉を選ぶように言うと、呂蒙は鞍に上った。
「……ご不快を与えてしまったのでしたら済みません」
陸遜も倣って乗馬すると、先ほどの呂蒙の表情を思い出して言った。
「不快ではない。それに、謝るようなことでもないぞ」
呂蒙が馬を駆けさせると、陸遜もそれに従った。



陣営に戻ったその足で周瑜の営舎を訪うと、彼は胡牀に座って二人を迎えた。
特にいつもより顔色が良いというわけでもなく、周瑜は軍医を押し切って身を起こしていた。
傍の文机には、書簡を入れる小箱が置かれている。手紙でも書いていたのだろうか。或いは、受け取ったのか。
呂蒙は、気遣う視線を送りつつ、自ら書いた書簡を差し出して調練の報告を行った。
そして報告の終わりに、陸遜が時折調練を見に来る許しを乞うことを忘れなかった。
「職務を果たせていれば、余った時間に何をしようと構わぬ。伯言は、調練を見てどう思った」
周瑜は美しく微笑んで頷いた。
病に伏せるようになってから、周瑜の笑みは徐々にその性質を変えてきている。
「私は、都督様の調練以外目にしたことがございませんので、恥ずかしながら新鮮な思いでした」
「そうか。そう言えば伯言は、ずっと私の靡下にいたな」
「はい」
「子明、時には伯言と打ち合ってやると良い。野戦の厳しさを、伯言はまだ知らぬ」
周瑜が視線を転じると、呂蒙も口端を上げて笑った。
「はい。それは、面白そうです」
「お手柔らかにお願い致します、子明殿」
陸遜がすかさず呂蒙に向き直って揖すと、彼は笑い声を上げた。
「本当に、できた奴です。伯言は」
「全くだ」
ひとしきり笑うと、周瑜は呂蒙に席を外すよう頼んだ。
「このできた者に、用があるのだ」
周瑜と目を合わせた呂蒙は、何かを了解したように頷いて、あっさりとその場を辞去した。


営舎の中に二人だけになると、周瑜はやおら小箱を取り寄せて陸遜に示した。
「伯言、やって貰いたいことがある」
上官らしい声の響きに、陸遜は短く返答して居住まいを正した。
周瑜の言から察するに、この小箱の中は命令書か、と考える。
「これを、殿に送り届けて欲しい」
「…………はい」
言われたことの真意を量り兼ねて、陸遜の返事は少し遅れた。
その途端、周瑜が吹き出す。豪快な笑いではないが、心底面白がっているのは判った。
きっと、陸遜の反応が周瑜の予想通りだったのだろう。
多少、羞恥を感じた。
「……あの、それは、手紙ですよね」
「そうだ。殿への大事な報告書でもある」
周瑜の顔にはまだ笑みが浮かんでいた。
「私が、運ぶのですか?」
「そう言ったつもりだが、解らなかったか?」
陸遜は戸惑った。
報告書など、側仕えや役人に適当な兵を付けて送らせるのが普通だからだ。
一武将が直に持ってくるのは、異例なのである。
「大事な任務だ。お前の手で、殿にお渡しせよ」
「……私は、前線から退かされるのですか」
陸遜は、周瑜の命には返答せずに問うた。
報告書をやり取りするのはよくあることで、しかも、呉国内での移動であるから往復の道も安全である。
ということは、陸遜を建業に送るのが目的ではないかと思えてきたのだ。
「いや。伯言には、公績と共に江陵へ戻ってきて貰う」
「公績殿と?」
陸遜の頭に、少し前まで己と同じく周瑜の側にいた年下の武将の顔が思い浮かんだ。
「あぁ。手紙に、公績を江陵へ送って頂くよう書いた。お前も、まだ江陵に必要だ、とも」
「……はぁ」
陸遜は曖昧に頷いた。まだ胸の内には、納得できずもやもやしたものがある。
結局、一時的にでも前線から遠のくことに変わりはないし、やはり手紙の通達は下位の者の役割なのだ。
「お前を信頼して命じているのだ。そこまで嫌がるとは、一寸意外だな」
周瑜は、興味深そうに陸遜を見た。
確かに、陸遜が上官の命にこれ程渋るのは初めてである。
渋ることができたのは、直接軍の在り様に関る命令でなかったからで、渋ったのは、周瑜のいる最前衛から離れる命令であったからだ。
「……前線から退くことには、抵抗があります」
「退くのではない。『戻ってきて貰う』と言ったであろう」
(……今は、離れたくないのです……)
陸遜は、そう言いたくなるのを抑えて唇を噛んだ。
相手が黙ってしまうと、周瑜も穏やかな微笑を浮かべるだけになる。
性質を変えた周瑜の微笑は、おそらく陸遜の苦手なものになるだろう。そう思わせる微笑だった。


周瑜の微笑は、美しい。
元の顔が良いのだから、それは当然だ。
だが、微笑みかけられる度に人々が魅了されて止まないのは、その瞳に卓抜した叡智と揺るぎない志が表れているからだった。陸遜も、それに惹かれたのだ。
しかしそれは、江陵攻めを開始した辺りから曇り始めた。
流れ矢を受け、病がちになり、周瑜はとうとう血を吐いた。
赤壁の戦い前後から耳にはしていた『あの方』という言葉も、その頃から次第に周瑜の口端に上る回数を増やしていった。
何かが、周瑜の身体だけでなく心も蝕んでいくように見えた。
――――― その『何か』は、『病』か、『あの方』か。
陸遜に、周瑜を救う方法は分からない。
だが、見守っていたかった。



不意に、周瑜が咳き込んだ。
「都督様!大丈夫ですか!?」
答えることもできず、周瑜は身体を丸め、咳をし続ける。
陸遜はすぐさま立ち上がり、牀台の端に置かれた血を拭うための布を取って周瑜の口元に持って行った。周瑜の背中をさすってやりつつ軍医を呼ぼうとすると、それは振り上げられた手に制される。
「都督様、軍医に診てもらった方が宜しいと存じます」
「……よい。……血は、吐いておらぬ……」
漸く咳が治まると、咽喉の調子を整えて周瑜は言った。顔色は先より青ざめているが、手にした布には、確かに赤いものは見られなかった。
「…ですが、ご無理はなさらないで下さい。次は、如何に命ぜられようと軍医を呼びます」
咳が落ち着いたのを確認して離れると、周瑜は苦笑していた。
陸遜は、窓を閉めようと窓際に寄った。
営舎の中は、窓が大きく開かれているせいで、風が通り過ぎるくらいに通っていた。
軍医がいつも窘めつつ閉めるのだが、軍医が居なくなると周瑜は再び開けさせた。
風が心地よいのだ、と周瑜は言う。
その言には、陸遜は懐疑的だ。
営舎内の換気という話ならまだしも、やはり吹き付けるような風は病の身体に辛い。心地よさがあったとしても、それは最初だけだろう。風は、悪い空気も良い空気も関係なしに持ち去ってしまうのだ。
「閉めるな、伯言」
窓枠に手を掛けた陸遜に、周瑜は言った。
「風はお体に毒です、都督様」
「よいのだ、そのままにしておけ」
仕方なく、陸遜は頷いて元の席に着いた。
「……我ながら情けない姿を見せた。このような指揮官の下では、兵たちも心休まぬだろうに」
周瑜は、独り言ともつかない自嘲の声を洩らした。
「次に隊の前に立てるのはいつになるのか……その前に潰えるか…」
陸遜は黙って周瑜の言葉を聞いていた。
口を開く度に、その瞳が虚ろに濁ってゆくのを見つめる。
嫌悪感を隠しきれているか自信はなかったが、周瑜が気付くとも思えなかった。
周瑜は、陸遜の様子よりも営舎を吹き抜ける風に意識を向けている。
窓の方を見やる姿は、まるで風を見ることができているようだった。
「……このような無様、あの方も嗤っていよう」
紅い唇が、愛おしげに動いた。
周瑜が『あの方』を持ち出すと、陸遜の目はいよいよ冷ややかなものになった。
―――――『あの方』は、周瑜にとって本当に『孫策』なのか。
『孫策』と想っているものは、孫策の形を借りた『死』ではないのか。


「病とは、それ程に人を気弱にさせるものですか」


陸遜の言葉に、周瑜はゆっくりと首を回して振り返った。
黒曜の瞳が己を捉えるのを、陸遜は真直ぐに見つめ返す。
「……そのようだ」
周瑜は、自嘲とも苦笑とも言えない表情を浮かべた。
しかし、その瞳は陸遜をしっかり見ているだけ、虚ろではなかった。
「今の私の姿、覚えておくが良い。そして、こうはならぬよう健康は大切にせよ、伯言」
「はい」
陸遜は頷いた。
「良い返事だ、伯言。ではそのまま、これも受け取れ。――― これは命令だ」
「……謹んで、承ります。都督様」
丁寧に拱手して、陸遜は小箱を受け取った。
結局は、上手く丸め込まれてしまった。無論、最初から上官の命は受ける他ないのだが。
「明日、手下の五十名をつれて江を下れ。公績には、一万を率いてくるよう指示を出した。それと共に戻って来い」
「はい」
周瑜の言葉に区切りがついたと感じると、陸遜は手早く、だが丁寧さは失わぬよう辞去した。



翌朝、陸遜は周瑜に挨拶した後、小箱を携えて小艦に乗り込んだ。
調練よりも早い時間だったので、呂蒙が見送りに陣営前まで出て来てくれた。
「殿に宜しく申し上げてくれ、伯言」
「はい、子明殿」
陸遜は、見送りに対しても重ねて礼を言うと部下に乗船を命じた。
最後に拱手して去ろうと振り返った時、呂蒙を見てふと言葉を変えた。
「子明殿、周都督様の病は、良くなられるでしょうか」
他の誰が何と言おうとも、例え軍医が首を振っても、呂蒙が「是」と言えば信じられる気がした。
だが、呂蒙は無言で陸遜を見つめ返しただけだった。
その表情は、やや苦しそうである。
――――― やはり、呂蒙には酷な質問だったのだ。
陸遜は、答えが返ってくることを期待してはいなかった。
というより、呂蒙は陸遜の期待する通り誠実な人間だから、答えることが出来ないのだ。
「是」と言うのは嘘であり誤魔化しに過ぎず、「否」と言うのは辛く恐ろしいことであった。
(……解っていて、何故問う?……)
陸遜は、己の行動を不思議に思った。
「詮無いことを申し上げました。出立前の無礼な振る舞い、お赦し下さい」
口を噤んでいる呂蒙に向かって拱手し、深々と頭を下げる。
「いや、何も言うことが出来なくて済まん」
「いいえ」
陸遜はいつもの笑みを浮かべて返したのを最後に、小艦へ向かった。





 続く


 →間へ
 起へ←

 小説topへ ←