間、
建業の空気は、江陵のそれとは明らかに違っていた。
前線の緊迫した雰囲気が無いのは予測していたが、それどころか、商人と共に人と物資が盛んに行き交っていて、まさに繁栄を謳歌しているという様子だった。 それに驚くのは、久しく戦線に居たということであろうか。 建業は、記憶のものより一回り大きくなったように感じた。 「久しいな、陸遜。城街の様子はどうであった?」 孫権は、陸遜が挨拶を述べるとやおらそう訊いてきた。 「以前より、大きくなっているように感じました。商船の数も多いですし」 「民は我々が思う以上に逞しい。南の物が運ばれるようになってから、市場は盛況になるばかりだ」 満足そうに言うと、「さて、周瑜からの報告と聞いているが……」と問う視線を寄越す。 「はい。書簡を預かって参りました。これにございます」 陸遜は命令どおり、孫権に小箱を手渡した。 封を切ると、孫権はその場で中を改めた。自身が優秀な文官である孫権は、慣れた手つきで書簡に目を通していく。 「……陸遜。お前はこの文の内容を、聞いているか?」 一通読み終えたところで、孫権は陸遜に声を掛けた。 「凌公績殿に一万の兵を率いて江陵へ来るよう要請した、ということは聞いております」 「他には?」 「私も、公績殿と江陵へ戻るよう書かれていると存じます」 「あぁ、確かに。……確かにそう書かれている」 孫権は、些か苛立ったようだった。 言いたいのに、言えない。そんな様子である。 周瑜の書簡に、何か驚くような戦略でも書かれていたのだろうか。 己に言を求めようとしているなら、軍務に関することだろう、とぼんやり考えていた。 何故か、あまり興味が湧かなかった。 やはり、本来は下位の者が行うべき役割を以って前線から遠ざけられたことが、陸遜の心に重く圧し掛かっていたのだ。己の胸の内に、周瑜への不満がくすぶっているのが判る。 「……まぁ、よい。陸遜、これはお前に委ねよう。凌統への書簡だ」 孫権はふっと、身体を椅子の背もたれに預けた。そういう仕草を見て初めて彼が身を乗り出していたことを知る。傍らの筆を取ると、一通の書簡に自らの名を書き記した。それを、陸遜に渡す。 「周瑜の要請が書かれている。今の時間、凌統はおそらく城街の館にいるだろう」 「承りました」 陸遜は、礼に適った所作で書簡を受け取った。 「それから、今宵は酒宴を開く。お前が主賓だ、必ず出席せよ」 「はい」 「では、行くが良い」 孫権は陸遜を下がらせた。 城を後にしたその足で、凌統の館へと向かった。 部下五名と案内の下官と共に建業の城街を歩く。 ――――― 江陵の方が、ずっと良い。 街の喧騒の中に在って、陸遜はそう思った。 (……ここには無駄なものが多過ぎる……) 陣中では、一切贅沢はできない。 だが、無駄が悉く削ぎ落とされたその場所で、己は非常に充実を感じていたのだ。 それに対して、街を彩るきらびやかな装飾は夢のように手応えがない。 この城壁の中で人が堕落していくのは、いとも簡単なことだろうと思った。 凌統の館に着くと、家人に口添えだけして下官は去って行った。 部下を残し、陸遜だけが奥に通される。 (……なかなか、趣味の良い作りだな……) 下女が運んできた白湯を含んで一息吐くと、陸遜は室内から庭を眺めた。 そこには人工的に造られた池があり、菖蒲の花が咲いている。まるで一枚の絵のような庭園だった。 それを見て、そういえば回廊を歩く間も、目に付く柱の悉くに精巧な彫刻がなされていたのを思い出す。 館を建てる際に、実際に歩いてみて彫らせたとしか思えない位置ばかりであった。 「久しぶりだな、伯言殿。待たせてしまったか?」 凌統が、室に入ってきた。 「いえ、菖蒲の花が時を忘れさせてくれました。久しぶりです、公績殿」 「はは、本当に久しぶりだ。今、伯言殿の丁寧な口調がとても懐かしく感じられた」 陸遜の向かいに胡座すると、凌統は自然な動作で下女から白湯を受けた。 「そうですか。……この館、公績殿が建てさせたのですか?とても素敵ですね」 「いや。前の主人が残したものを、そのまま貰い受けた」 「成程。その御方の趣味が良かったのですね」 納得して頷くと、凌統はほんの少し眉根を寄せた。 「伯言殿、それは俺の趣味が良くないってことか?」 「滅相も無い。公績殿も気に入ったからこそ、そのままにしているのでしょう?」 白湯を飲み干すと、気付いた下女が注ぎ足した。 「……まぁ、歓談はこれ位にしようか。俺宛の書簡を持ってきて頂いたそうで」 「えぇ、都督様からです。どうぞ」 陸遜が書簡を差し出すと、凌統は素早く周瑜と孫権の署名を確認し、紐解いた。 書簡の文字に必死に目を走らせる様子を横目に見つつ、陸遜は碗に口を付けた。 凌統は、陸遜より五つ以上も歳若かったが、孫呉の武将としては陸遜より年季が入っていた。 共に周瑜の側近くに控えていたので、他の武将たちよりは身近である。 実際字で呼び合っているし、凌統の口調もくだけていれば、陸遜も他の武将にするような恭しい態度はとらない。 だが、互いに一定の隔たりは認めていた。 それは仕方の無いものだった。 陸遜と凌統の境遇は、一見似ていて、性質がまるで異なるからだ。 周瑜に対しても、強い思い入れがあるという点は同じだったが共通しているという感じはない。 もし、江陵にいたのが凌統で、建業で周瑜からの出動要請を受けたのが己であったとしたら、今の凌統のような表情で書簡を読んだだろうか。 『一万の兵を率いて来い』という以外の内容は知らないが、読み進めていくうちに凌統の瞳は猛々しい色を帯び、その口端がゆるく吊上がっていった。 「……待っていた。公瑾様は、必ず俺をお呼び下さると信じていたぞ」 誰に、というでもなく、凌統は堪え切れないようにそう洩らした。 陸遜は、凌統の顔に浮かんだ喜色を一瞥して、碗を置いた。 「それでは確かに、書簡は渡しましたので」 「あぁ、確かに受け取った」 凌統は、読み終えた書簡を丁寧に纏めた。 「伯言殿が来たってことは、今夜は宴会だな。その格好では出席しないだろう?」 陸遜を門まで見送る際、凌統が言った。陸遜は軍袍を着ていた。 「これから邸に戻ります」 そう答えると、凌統の顔に面白げな表情が浮かぶ。 「へぇ、伯言殿らしいと言えば、伯言殿らしいな」 陸遜は、視線だけでその先を問うた。 「奥方より先に会いに来てもらえるなんて、光栄だね」 凌統の含み笑いを見るのは、久しぶりだった。 自邸に戻ると、妻が出迎えた。 妻の父は、孫権の亡き兄・孫策である。妻は、己より十以上も若かった。 誰の目にも明らかな政略結婚であったが、陸遜は割り切っていた。 「お役目ご苦労様ですわ、夫君」 室に入ると、妻は諸々の用意だけ家人にさせ、陸遜の面倒は全て自身でしたがった。 取り立てて美しい女ではなかったが、翳りが無く、よく気が利いた。そういう点を、陸遜は評価している。時には愛嬌のある振る舞いをするし、妻としてはよくできた方だろう。 長らく会っていなかったせいか、妻はかいがいしく陸遜の世話をした。 「私が居ない間、元気にしていたか」 陸遜が問うと、はきはきした声が返ってくる。 「はい。建業は戦からも遠く、豊かでございます」 己の身体を拭きながら、妻は嫣然と微笑った。 それで、陸遜は妻の化粧が少し濃いことに気付いた。 大した濃さではない。まだうら若いのだからそこまで必要ないだろう、という程度である。 化粧に気付くと、心なしか身に焚き染めている香も些か強い気がしてくる。 髪飾りも、玉が垂れて見映えのするものを挿していた。 「今宵は殿の御召待をお受けしている。すぐに、使いが来るはずだ」 「はい」 陸遜の衿を整えながら、妻は頷いた。 すっかり着替え終わって周囲を片付けようとした時、陸遜は妻の片頬を捕らえた。 張りのある柔らかい感触が、手のひらから伝わってくる。 「私に、会いたかったか」 一言、訊いた。 「はい」 妻は、それだけ答えた。 必要なことは、その瞳が全て語っていた。 陸遜は、紅の引かれた唇に躊躇わず口付けた。 己の唇で相手の唇を摘むのを何度か繰り返し、その後深い口付けになっていく。 妻は陸遜によく応え、自身から求める動きさえみせた。 肩に添えられた手に力が篭ったのを感じて、陸遜は両腕で一層強く妻を抱き寄せる。 お互い気の済むまで貪り尽してから、唇を離した。 腕は、まだ回したままだ。 「衿が乱れてしまいましたわね」 暫くして、妻が言った。 「また、直してくれるか」 「はい。何度でも」 女の細い指が、陸遜の胸元を整える。 やがて孫権の使いが来たという家人の報せが入ると、妻は再び陸遜に微笑を向けた。 「行ってらっしゃいませ。夫君のお帰りを、心よりお待ち申し上げておりますわ」 紅がすっかり落ちてしまったというのに、反って艶やかな微笑だった。 宴会は、その場に居合わせた者のみが出席する小さなものだった。 主賓が陸遜ということもあって、出席した文官は張昭と魯粛の二人で、後は武人ばかりである。 凌統も、列席していた。 どうやら彼も、主賓のようである。陸遜の歓迎と凌統の見送りを兼ねているのだった。 「宴である。存分に飲み食いするが良い」 孫権が言って、自ら列席者に酒を注いで回った。自身が大酒呑みであり、その酔っ払い方たるや豪快そのものであったが、酒席での失敗談には事欠かず、また張昭のいる手前、好きなだけ杯を呷るということもできないようだ。 宴席を一巡した後一杯呷ると、孫権は凌統にいつ江陵へ向かうのか尋ねた。 「明日の午後には出動出来ます」 「早いな」 孫権の驚く声を聞いて、陸遜も同じことを思った。 「江の溯上には時がかかりますので、なるべく早く進発したいと思います」 「そうか」 軍事には今一つ疎い孫権は、頷いただけだった。 (……それでも早い……) 率いる一万を選び出し、輜重を調え、艦隊に乗り込むのである。 凌統の『待っていた』というのは、言葉ばかりではなかったのだ。 周瑜が呼び寄せることを確信して、堅実に備えていたのである。 歯噛みしたくなった。 陸遜は伝令のために前線から離され、凌統は要請されて周瑜の元へ向かうのだ。 そして増援の一万を率いるのは凌統である。 武将としての才量は十分にある。だから、己は本当に、凌統にくっついて帰れば良いのである。 それが、悔しかった。 「陸遜、酒は美味いか?」 凌統との話に区切りがついたのか、孫権は陸遜の方を向いて言った。 「はい。美味しく頂戴しております」 「いかんな、まだ素面だ。もっと飲め。私が注いでやろう」 孫権は陸遜の杯を取り、酒を注いだ。 手渡された酒杯に礼をして一息に飲み干すと、孫権がにやりと笑う。 「快い飲みっぷりではないか、陸遜。どれ、私の杯にも注いでくれ」 「御意」 陸遜が注いだ酒杯を孫権も一気に干した。 満悦の表情で、杯を置く。 そして、唐突に言った。 「周瑜が、お前のことを褒めておったぞ」 陸遜は、何も言えず見返すだけだった。 「『今この書簡を手渡した者が、よくできた奴だ』と書いてきおった」 孫権は笑いながらこちらを見ている。 「なかなか面白いことをする。周瑜は私の側近が間に入らないことを知っていたようだ。『手渡せ』と命じられていたのか?」 「はい。私の手で殿にお渡しするように、と」 どちらかと言えば書簡を届けることに重点のある言だったが、確かにそう言っていた。 「ふむ」 顎に手をやる主を見つつ、あの時書簡の内容を訊いてきたのはその言葉に驚いたからだろうか、と陸遜は考えた。 そうかも知れないし、そうでないかも知れない。 孫権の本心を、掴めたと感じたことは一度もなかった。 仕えて数年になるが、陸遜は今だに孫権という人物を捉えかねている。 孫権はしばしば、不可思議な言動をするのだ。 どうしてそうするのか解らない。興味本位にやってみた、という感じのすることが多かった。 しかし孫権のそういう所は、陸遜の目にはどちらかと言えば長所として映った。 一勢力を率いる主が、容易く心を読まれるようではいけないのである。 それに、孫権は独特の感性と、人を冷静に見つめる慧眼を持ち合わせていた。 諜略で嵌めるには、些かやりにくい人物だろう。 それは、主としては長所に違いない。少なくとも陸遜はそう思っている。 (……それとも、都督様なら簡単に見抜いてしまうのでしょうかね……) 陸遜は酒杯を呷った。 孫権は五杯目を干したところで、張昭に止められていた。 翌日、陸遜は少し遅い朝を迎えた。 午後には進発、と凌統が言っていたので、手下の五十名は早々に待機させておく。 軍の雑務を手伝うことは、特にしなかった。 周瑜が凌統に一軍を率いて来いと言ったのは、凌統の手並みを見るためでもあるのだ。 だが、使いが来る前に、陸遜は軍港へ行った。 己の小艦が先に用意を整えておきたかったからである。 港で凌統と会うと主艦に乗るよう勧められたが、それは辞した。 凌統軍の準備が八割方整ったのを見計らって部下たちに乗船を命じ、己もすぐに乗り込んだ。 続く →転へ 承へ← 小説topへ ← “あとがき”という名の言い訳:
陸遜の口調。・・・奥さんの前では一寸男前。
個人設定を言えば、陸遜は周瑜を意識しています。 仕事場では一武人として振舞いますが、一家の長としては周瑜みたいなのが理想って感じで。 あ、「周瑜みたいに」ってのは「”赤壁ごろの”周瑜みたいに」ってことです。今の周瑜はイタイですよ。 しかし、後は”転”と”結”の二話か。・・・終わるかな? もしかしたら、”転”→”後”→”完”とかって姑息なことをするかもです。いや、可能性大だ。 大体、”間”を作ってるあたりで長丁場なこと決定ですって。 |