転、
江陵へ着くと、すぐさま伝令を遣り、隊伍を整えて本営に向かった。
本営前では、周瑜自身が隊を整列させて迎えた。周瑜は、陸遜が江陵を出た時より痩せていた。 号令を放つ声は鋭く、馬上でも背筋がしっかり伸びていたが、青白い顔を隠すことはできていない。 周瑜の営舎に通されてその顔を間近にすると、凌統は流石に衝撃を隠しきれないようだった。 「お久しぶりにございます、公瑾様。……お痩せに、なられました」 「久しぶりだな、公績。何、少しばかり体調が優れぬだけだ」 周瑜は胡牀に腰を下ろした。 凌統が驚くのも無理は無い。今の周瑜は、軍袍が体から浮いて見えるほどであった。 「一万の隊列は見事であった。次は、あれをどう動かせるか見てみたいものだな」 「今すぐにでも進撃できるよう、訓練してきました」 「頼もしいことを言うではないか。では五日で、この陣の兵たちと足並みが揃うようにさせよ」 「三日で、実現させて見せます」 真直ぐな凌統の言葉を聞いて、周瑜は微笑んだ。 より白くなった顔色に、紅い唇がよく映える。切れ長の目と、美しく吊り上げられた口角が、病の翳りを受けて妖しい色を放っていた。 「うむ。では時間が惜しいであろう。すぐに陣を回ってよい。軍の状況は、自身で聞いて回った方が掴めるだろう」 「はい。そうさせて頂きます」 凌統は深々と頭を下げてから、営舎を出て行った。 「……まだ不満か、伯言」 幕が完全に閉められたのを見計らって、周瑜は陸遜に言った。 「いえ。私はもう、陣営に戻って来ましたから」 「つまり戻ってくるまでは、やはり不満だったのだな」 陸遜は、口を噤んだ。 だが周瑜は特に気にした風でもなく、ごく自然に続けた。 「殿はご健勝であられたか?建業の様子はどうであった?」 「それはもう。殿にお変わりは無く、城街は一回り大きくなっておりました」 「成程。……書簡については、何かおっしゃっていらしたか?」 「……驚かれていらっしゃいました。私に、書簡について何か聞いているかと問われるほどに」 身を乗り出して尋ねてきた孫権を、陸遜は思い出した。 周瑜は笑って頷く。 「殿は驚くような事がお好きだから、少々凝らしてみたのだ」 ――――― それは、陸遜に書簡を手渡させたことを言っているのだろうか。 いずれにせよ、孫権が喜んでいたようには見えなかったのだが。 陸遜がそう考えていると、不意に、一陣の風が営舎を吹き抜けていった。 強い風だ、という程でもないが、前髪が揺らされてふと視界が遮られ、その瞬間確かに風が吹いたことを主張するような、そんな風だった。 陸遜は乱れた前髪をかき上げ、周瑜を見た。彼は、風の過ぎ去った方向を見ている。 「……いつも、置いていかれてしまうのだな、私は……」 周瑜は、少しだけ目を細めた。 「早く良くなられて下さい、都督様。公績殿は、心配のあまりろくに言葉も言えぬ様でしたよ」 「解っている。待つしかないのだ、私は……」 陸遜の言に、周瑜は曖昧な頷きを返すだけだった。 その表情に、憂いは無い。ただ穏やかな悲しみが、湛えられている。 「……本当に、風のようなお人だった、あの方は……」 一言零れたのを耳にして、知らず、陸遜は拳を握り締めた。 周瑜は、まだ窓の方を眺めている。 「………午後の見回りがありますので、私はもう行きます」 陸遜は丁寧に拱手して、立ち上がった。 「うむ。此度の任務、よくやってくれた」 周瑜はゆっくりと振り返ると、ふわりと微笑って言った。 その微笑みは、上品で優美であった。もし、美しい女がこのような笑みをしようものなら、それを目にした男は声を掛けずにはいられないだろう。 ――――― 建業に、お似合いだ。 陸遜はそう思った。 「いえ。上官の命は、絶対ですから」 もう一度恭しく頭を垂れて、陸遜は営舎を後にした。 見回りを終えて陣営をぶらつこうとした時、凌統を見かけた。 凌統は、陸兵の兵長にまで丁寧に話を聞いているようだ。 特に用も無いのでそのまま通り過ぎようとしたら、彼は会話を打ち切って陸遜を追いかけてきた。 「伯言殿、見回りは終わったのか」 「えぇ。兵長との話は宜しいのですか、公績殿」 陸遜は立ち止まって、凌統に向き合った。 「あぁ、構わない。同じことを、他の者にも確認したからな」 「そうですか。……私には、何か御用で?」 「あぁ。……まぁ、『御用』って程のもんじゃないんだけどな」 言葉をちょっと濁して、凌統の視線は下へ向いた。 「……歩きながら話そうか、伯言殿」 陸遜は頷いた。何となく、凌統の話したいことは察しがついた。 暫く歩いて、人通りがまばらになった頃、凌統は再び口を開いた。 「……公瑾様は、いつからあの御調子なんだ?」 「そうですね。私の気が付いた限りでは、江陵攻めで矢をお受けになられた時からでしょうか」 陸遜は、大して深刻には聞こえないように言った。 「……どうして何も言ってくれなかったんだ」 凌統の声は、苦しそうだった。 「言えば、何か変わることでも?」 「あれ程悪くていらっしゃるなんて、俺は知らなかった」 「公績殿がそそくさと営舎を出て行きたくなる程、お窶れになられましたね」 久々の対面だったのだからもっと話し込むかと思っていたが、凌統はあの時、口実を与えられてすぐに営舎を出て行った。 「伯言殿!」 凌統は、陸遜の言葉を聞いて声を荒げた。 だが、陸遜はそれとは対照的に、静かに凌統を見つめ返してやる。 気付けば陣営のかなり外れまで来ていた。 二人は自然に、歩を止めた。 暫く視線を合わせた後、凌統がぽつりと口を開いた。 「……あぁ、確かにそうさ。公瑾様があんな風になっていらっしゃって、正直、俺は何と申し上げたらよいか判らなかったんだ」 凌統は俯いた。口調から、落ち着きを取り戻したのが判る。 「私も、驚きましたよ。私がここを出たときより、今ははるかに悪くなっていらっしゃる」 今度は、少し同情的に言葉を柔らかくして答えた。 「済まなかった、伯言殿。誰かにぶつけたかっただけだ、きっと」 「構わないですよ。心の中に溜め込んでおくのは、良くありません」 彼は周瑜を目の当たりにした衝撃が大きすぎて、持て余していたのだろう。 そう思いつつ答えると、凌統は一寸笑った。 江陵へ戻ってきて、半月が経った。 陸遜はこのところ、調練を見に行くことが多い。 周瑜への報告を欠かすことは無かったが、彼が『あの方』を口の端に上らせる前に営舎を出るようにしていた。 今、陸遜は小部隊を訓練している。 「見ているだけではつまらんだろう」と言って、呂蒙が少しずつ陸遜に任せるようになったのだ。 全体の指揮権は呂蒙にあるが、手元の部隊は陸遜の指示にもしっかりと従った。 「よく纏めているじゃないか、伯言」 調練が終わると、呂蒙はそう言って陸遜を労った。 「いえ、やはり水軍とは違いますね。少しの乱れが状況を大きく左右します」 「うむ。陸兵は、全体が一つの生き物のように動かねばならん。常に引き締めていくのだ」 兵長たちの報告を聞き終えると、呂蒙はいつものように報告書を書き始めた。 陸遜も、いつものようにそれを背後から覗き込む。 (……益州攻めの準備は、着々と整ってきている……) あとは、周瑜が合図を出すだけだ。 だが軍医の看病も、ましてや凌統の心配もよそに、周瑜の容態は悪化する一方だった。 血を吐く頻度は確実に増してきているし、最近では吐く前に熱を出すようになっている。 その顔は青白く、食が細くなったせいで、誰の目にも明らかに痩せていた。 ただその中で、異様とも言えるほど、周瑜の美しさは増していった。 病の翳りも、顔の青白さも、端正な周瑜の容貌に侵し難い美麗さを与えていた。 何より、その黒曜の瞳が、時折この上ない喜びに潤むのだ。 涙を流すのではない。何かを見つめて、周瑜は嬉しそうに微笑する。 そういう時、彼の瞳は艶やかに光を弾いているのだった。 周瑜は、『あの方』の話を以前より多くするようになっていた。 わずかな救いは、その軍事的判断能力が全く衰えていないことだった。 ある日、午後の巡回を終えた時のことであった。 常の報告のため周瑜の営舎を訪れると、その周囲を慌ただしい雰囲気が包んでいた。 入り口に立っている守衛兵も、いつもより些か興奮の色が表れている。 ――――― 胸騒ぎがした。 知らず、陸遜の歩は早まっていく。 その時、幕を開いて軍医の一人が外へ出てきた。 両の手に、赤い布を抱えている。 その赤が何なのか判った瞬間、酷く嫌な感覚が陸遜の背を這い上がってきた。 「……都督様」 陸遜は走っていた。 軍医の姿が近付くと、通常より赤い布が多いのがはっきりと見てとれる。 「都督様!」 こちらを見た軍医が何か言っていたが、陸遜は無視して営舎に飛び込もうとした。 「入ってはなりません!」 突然、守衛が戟を交差させて前に立ち塞がった。陸遜の様子に、守衛も慌てたようだ。 「何故だ!?お前達のような者に止められたことは、これまで一度として無かったぞ。理由を言え!」 噛み付くように言うと、守衛は驚きを顕にして顔を見合わせる。 「都督様!陸伯言です。どうかお目通りを、都督様!!」 陸遜は高揚していた。 次第に弱々しくなっていく周瑜を毎日見ていた筈なのに、血の赤の量を見た瞬間、とてつもない恐怖に襲われたのだ。 己が通常他人に見せている丁寧さなど、かなぐり捨てていた。 そうしてでも、今は周瑜に会いたかったのだ。 血相を変えた陸遜を守衛が何とか抑えていると、不意に営舎の幕が開かれた。 「落ち着け、伯言。息を整えてから入るのだ」 その声は常にも増して、低く聞こえた。 己の興奮が場違いであることを知らせるような響きに、陸遜は我に返った。 「……はい。済みません、子明殿」 俯いて答えると、呂蒙は無言で守衛の戟を下ろさせ、幕を上げて中に入るよう示した。 「……慌てた声だった……お前らしくもないな、伯言……」 陸遜の姿を見止めると、周瑜はまずそう言った。 「……我を忘れてしまいました。軍人にあるまじき振る舞い、以後気を付けます」 言いながら、陸遜は拱手して深々と頭を垂れた。 営舎の中は、いつも開かれていた窓が閉じられている所為で、薬湯の匂いに満ちていた。 外から差し込む光も遮られ、陽はまだ沈んでいないというのに薄暗い。 周瑜はこれらを、窓を開けさせることで処置していたのだろうか。 薬の匂いは病の臭いであり、室の暗さは心の暗さだった。 その中で、周瑜の肌だけが冴え冴えと皓い。 牀台に横たわり、微笑を浮かべながらこちらを見つめる周瑜は、艶やかな女人のようであった。 そしてその白い顔が、陸遜の言葉を聞いて笑みを深くした。 「……我を忘れた、か………私が、死ぬと思ったか?……」 「都督様」 窘めたのは、側に控えた軍医だった。 「良いではないか……事実、お前たちも、私をそのような目で見ている…」 軍医が口を噤むと、周瑜の口角がゆるりと吊り上った。 暗がりの中で、それは酷く妖しい雰囲気を纏っている。 「死ぬ、とは思いませんでした。……ただ、とても嫌な感じがして、居ても立っても居られなくなったのです」 俯いたまま、陸遜は答えた。 黒曜の瞳が、微笑を崩さぬまま己を見ている。その微笑は、やはり陸遜の苦手なものだった。 少しして、呂蒙は外の兵に呼ばれて営舎から出ていった。 それと同時に、軍医も下がらせると、周瑜は言った。 「伯言、窓を開けてくれ」 「……ですが、大きくは開けられませんよ、都督様」 「任せよう」 陸遜が少しだけ窓を開くと、涼やかな風が営舎内の空気を攫っていく。 薬湯の臭いが、次第に薄まっていった。 「……済まぬな。上体くらいは起こしてお前を迎えたかったのだが」 「いいえ。あのような振る舞いの後、入れて下さっただけで有難いというものでしょう」 陸遜は、先ほどまで軍医のいた位置に座した。 そこからは、周瑜の様子がよく見えた。 牀台に横たえられた体躯は、掛け布の上からでも相当痩せていることが判る。 そんな軽そうな身体でも、今の周瑜が動かすにはかなりの疲労を伴うのであろう。 周瑜は気怠げに溜息を吐き、ぽつりと呟いた。 「……病に倒れたが、なかなかに、生き延びている。……根が、図々しいのだろうな」 陸遜は何を言うでも無く、ただ周瑜を見つめた。 「……あの方は、倒れて……私を待ってはくれなかった……」 その濃い睫毛は伏せられていて、瞳の色を見ることはできなかった。 「いつも、追うのは私だった……そして、とうとう追い着けなかった……。それでも、きちんと、御言葉は残されて……」 周瑜は、次第に熱を持ったように話し出した。 「決して暗愚ではなかった……お強くて、潔くて、お心が広くて……あの方は、皆を魅了した……」 熱に浮かされて、周瑜は饒舌になってゆく。 「ただ、いつも急いていた……いや、我々がついて行けなかっただけか、あの方の才に。……私が窘めると不満そうにして……だが、最後はいつも仕方が無いと笑って下さった」 周瑜の睫毛が震えた。力強くないとは言え、その声には歓喜の響きが露わだった。 ――――― 過去に溺れる。 それが、呉にこの人在り、と謳われた周瑜公瑾の様か。 そう思うと、知らず、陸遜は口を開いていた。 「過去を、美化しているのですか」 ――――― 振り返った周瑜の瞳を見た瞬間、陸遜は息を詰まらせた。 凄まじい、殺気だった。 陸遜の言葉に周瑜が振り返ると、その病床の様子からは想像を絶するほどの殺気が放たれていたのだ。 それは、一瞬間、己の体が失われたような錯覚さえ感じさせるものだった。 黒曜の瞳が鋭い光を放ち、陸遜をしっかりと捕らえていた。 視線を逸らすことはできず、そのまま対峙を続けると徐々に殺気は治まり、やがて掻き消えた。 「……あの方は、確かに美しかった」 殺気は消えたが、周瑜は陸遜を睨んでいた。 「礼を言おう、伯言。お前の言葉、私の目を開かせてくれた。だが、二度と、言うな」 周瑜の声音は、怒気が含まれている分はっきりとしていた。 陸遜は返事をしようとして、拱手だけを返した。―― 咽喉が渇いていて、声が出なかったのだ。 「私は、もう休む。軍医が訊ねてきたらそう言え。お前は、下がるのだ」 陸遜を一瞥して、周瑜は言った。 もう一度丁寧に拱手し、深々と頭を垂れて、陸遜は営舎を後にした。 続く →後へ 間へ← 小説topへ ← ”あとがき”という名の言い訳:
イタイ周瑜、これで終わりです。
本っ当、イタかった。『あの方』って書くたびに、「またコイツ言うんかい」って書いてる側の気力も削がれました。 そして、周瑜マジ切れ。こんなこと言われたら多分切れるだろうなって思って言わせた台詞ですが、どうでしょうか? ・・・こんなもんじゃ切れませんかね? ではでは、これから物語りも終盤に入ります。 よろしく最後までお付き合いいただけたら嬉しく思います。 |