其の暁、灼灼たり



後、


翌日、朝の軍議はいつもと変わらず執り行われた。
周瑜の変化は、まずそこで表れた。
江陵を征圧してから、周瑜の指揮はその日最も冴え渡っていた。
軍議の後、周瑜は四日に一度だけ見に行っていた調練に現れ、陣営の巡察にも回った。
「以前の公瑾様に、お戻りになられたようだ」
凌統は嬉しそうに言っていた。
確かに、周瑜からは病の弱々しさが消え、以前の鋭さが戻っていた。
凄まじい殺気を受け、二度と口にするなとまで言われたが、陸遜はあの時あのように言って良かったと思っていた。将軍としての才を遺憾なく発揮する周瑜を見るのは、嬉しいことだった。
元々、陸遜は彼を敬愛していたのだ。
周瑜が本来の気力を取り戻すと、陣営の活気は俄に高まった。
ただ、軍医だけが顔色を曇らせていた。
周瑜は猶、血を吐き続けていたのだ。


それから、数日後のことだった。
陸遜が見回りの後陸兵の調練を見ていると、周瑜が部下を連れて現れた。
「良い場所だな。調練の様子がよく見える」
「都督様」
「伯言、駈けようか」
言って、周瑜は返事を待たず馬に鞭入れた。
陸遜も、それに黙って追従した。
暫く駈け続けると、長江を見渡せるに崖に出た。
丁度川の流れが曲がりくねった場所で、切り立った岸壁は自然の要害といった感じになっている。
向こう岸には林が広がっていて、その更に奥に、城壁が見えた。
旗が靡いている。
見なくても判る。あれは曹操陣営の旗だ。
幅広い長江を挟んで、向こう側は魏の勢力下だった。
川縁だけを、呉の水軍が押さえているのだ。
「曹操は、大きい。それに相対するには、益州を奪らねばならぬ」
陸遜が隣に馬を並べると、周瑜は振り向かずに言った。
両者の部下は、後方に控えている。
「劉備の増長を抑え、曹操に対抗するのですね」
陸遜が言うと、周瑜は首だけ動かして頷いた。
「天下、二分だ」
周瑜の瞳には、強い意志が表れていた。
「この江が、我らを勝利へ導く。……伯言、夷陵へ行け」
「……都督様……」
陸遜は、思わず周瑜を見つめた。
「お前の好きな兵を、好きなだけ連れて行くがいい。公績にも後を追わせる。伯言と公績、我が軍の先鋒は、お前たちだ」
――――― ずっと、待ち続けた言葉だった。
「はい。ご命令、しかと承ります」
周瑜は陸遜の方に顔を向けると、和やかに微笑んだ。
美しいが、女人の様ではない。陸遜がかつて惹かれた、笑顔だった。



「――― だが伯言、私の計略が失われたら、お前はどうする」



笑顔のままの口から、不意に問いが発せられた。
その問いは突然で、陸遜は周瑜の方を向いたまま軽く目を見開いた。
――――― それは、己の知略を測るものだろうか。それとも、……それとも…………。
胸に、不安がよぎった。
「……都督、様……」
言葉を詰まらせる陸遜を見て、周瑜は軽く笑った。
「何をそのように驚いている。先のように快い返答をせぬか」
そう言われても、陸遜は周瑜を見つめるだけしか出来なかった。
だが、周瑜は陸遜の瞳を覗き込んで、満足そうに頷いた。
「まぁ、よい。お前の中に、答えはもう出ているようだ」
――――― どういう意味か。
陸遜の頭はそれを問う気持ちで一杯だった。
そうしていると、周瑜は再び微笑んだ。
「伯言、お前の瞳は良いな。清々しくて、快い」
「都督様」
陸遜は、江陵を出る前にも同じことを言われたのを思い出した。
呂蒙も、陸遜の瞳を『子供の瞳だ』と言った。
彼らは、己の瞳に何を感じたのだろうか。
「お前なら、私が見ることのできなかったものを、見ることができる」
黒曜の瞳が、陸遜を捉える。
その瞳は、知性と確固たる意志の色を湛えていた。
「人の心の弱さだ、伯言。私はかつて、何度もそれから目を逸らし続けた。……恐れていたのだ。今もそうだ。努力はしているのだがな」
陸遜は、黙って周瑜の言葉を聞いていた。
確かに、己は嫌なものに対してもきちんと目を開いてきたつもりだ。
だがそれは、強いとか、弱いとかの話ではない。
それを知っておかないと、後で損を被ることがあるかも知れない。そう、思うからだった。
だから敢えて言えば、弱さからくるものなのである。
その弱さを絶えず自覚していることが必要だ、と周瑜は言っているのであろうか。
「無論、それでは良い結果は生まれぬ」
そう言った声は、冷徹だった。
「知ることで、傷つくだろう。だがお前はそれを受け止め、全てを見定めることができると私は信じている」
「……無責任です」
「承知している。お前にとっては迷惑なだけかも知れぬが、私は、陸伯言に期待しているのだ」
「……言わせて頂きますが、都督様は狡い御方ですね」
陸遜は堪らず、そう言った。
――――― 『期待している』。
今の、尊敬する周瑜にそんなことを言われたら、喜んで彼の言葉に従わざるを得ないではないか。
「昔からなのだ。赦せ」
陸遜の言を聞いて、周瑜は笑った。



二日後、陸遜は自身で選び抜いた兵一万を率いて夷陵へ向かった。
益州までは、ひたすら長江の溯上である。殆どが水兵の構成だった。
七日後に、凌統が一万を率いてやってきた。
先鋒二万、活気に満ちた精兵であった。
夷道、夷陵は着々と呉の勢力下に組み込まれていった。
そうして一月経たぬうちに、江陵から報せが届いた。
――――― 周瑜の病状、悪化。
報せを受けて、凌統が一度だけ江陵に戻った。
容態が芳しくないことは凌統の表情からも判ったが、陸遜はあまり深刻に受け止めなかった。
江陵へ見舞に行くという気持ちも起こらず、代わりに、仔細にわたる陣の状況を書いて送った。
益州攻めの計略は、確実に成ってきている。
それを報せることが、周瑜を一番励ますことになると思ったからであった。
だが、周瑜の容態が悪化したという報せは、その後も途絶えることは無かった。
――――― 周瑜、危篤。
その報せが届いてから数日して、呂蒙直属の校尉がやって来た。







――――― 周瑜、死亡。
陸遜が江陵を出てから、二月も経っていなかった。





*****




周瑜の遺骸を入れた棺は、凌統と陸遜が建業へ持って帰ることになった。
前線へは魯粛と諸葛瑾がそれぞれ部下を率いて送られ、当座の処理を行うらしい。
呂蒙も二人の到着まで陣営維持に努め、それから建業へ向かうと言っていた。
夷陵にも、信頼できる将校を残してきたつもりだ。
取り返しがつかないほどの混乱に陥ることは、まず無いだろう。
長江は、下るときは速かった。
赤壁から以降、夷陵に至るまでこの流れを溯上するのに、一体どれほどの月日が費やされたのか。
江は呉の道を拓いてきたが、その江の厳しさを最も知っているのも呉であった。
途中、魯粛、諸葛瑾の二人を乗せた艦隊と出会った。
魯粛は周瑜の朋友で、遺骸を一目見たいと言ってきた。
特に断る理由は無かった。
魯粛は棺に入った周瑜を見ると、二言三言静かに声を掛けて瞑目した。
涙を流すことは無かった。黙していたのも短い間で、陸遜らに礼を言って自身の艦隊に戻っていった。
不思議と、大抵の者は周瑜の死を静かに悼んだ。
いや、凌統だけは遺骸を見るなり号泣したが、呂蒙も、周瑜の近侍の者も、声を上げずに涙を一筋流しただけだった。
陸遜は、涙さえ流さなかった。
それは、生前の周瑜の性格がそういう雰囲気を出させるのだろうか。
諦念にも似た穏やかな空気が、遺骸の周囲を押し包んでいた。


建業では、孫権が直参して艦隊を出迎えた。
棺が運び出されると、孫権は走り寄って縋った。
「……周兄……」
小さく言うと、彼の目から次々に涙が溢れ出た。
陸遜は、孫権が本心を表していると初めて感じた。
孫権は棺を丁重に運ぶよう旗本に命ずると、凌統と陸遜に向き直った。
「大儀、ご苦労であった。周瑜の葬儀は、私が直々に執り行うつもりだ」
凌統と陸遜は揃って拱手し、頭を垂れた。凌統の目は、また潤んでいた。
その時、ふと視線を感じて、陸遜は顔を上げた。
孫権と、目が合った。
すると、それにつられた様に孫権の口が開かれた。
「やはり、お前が運んできたか、陸遜」
それだけ言うと、少し目を細めてから孫権は踵を返した。
――――― 『やはり』。
それは、どういう意味だろうか。



それから三日後、孫権を喪主として周瑜の葬儀が執り行われた。
名だたる呉の武将たちが列を連ね、君主が主宰するとあって壮大な儀式となった。
呂蒙も、儀式の当日に建業に到着していた。
孫権は棺の前に立ち、周瑜の功績がいかに呉の繁栄に寄与したか、その人徳がいかに高いかを述べた。
それは嘘ではないが、用意された言葉だった。
それよりも、最初に棺に縋った時の「周兄」という言葉にこそ、孫権の思いは集約されていた、と陸遜は思う。
周瑜の遺骸は、丁重に葬られた。
哭礼をする者の多い中、それでも陸遜の目にこみ上げるものは無かった。
陸遜は、周瑜の白い遺骸を思い出していた。
その白さは、生前のものとは明らかに違った。
病に気力を削がれた彼を見て、無礼にも死者のようだと考えたこともあったが、本当の死者の白ではなかったと今はよく解る。
遺骸は、周瑜ではない。
しかし、周瑜の一部である。
遺骸を大切に扱うことで、周瑜に敬意を払うことができる。
陸遜は、棺の中に眠る周瑜に向かって深く頭を垂れた。


その夜は、しめやかに酒宴が開かれた。
死を悼む空気が濃い所為で、孫権ですら酔っ払ってはいなかった。
孫権を目にすると、陸遜の頭に再び疑問が浮かんだ。
(……『やはり』とは、どういうことか……)
――――― やはり、お前が運んできたか。
孫権は、そう言った。
(……『運んできた』……)
一瞬にして、血流が逆巻いたような感覚に包まれた。
――――― 陸遜が運んだもの。遺骸の前に、ひとつ、あった。
(……あの、文……)
どうして己が運ぶのか、解らなかった手紙。
周瑜が、己を信頼していると言って預けたもの。
孫権が目を通して真っ先に、陸遜に内容を問うてきた書簡だった。
(……何が、書かれていた?……)
陸遜は何となく予想がついたが、敢えてそれを意識しなかった。
予測しただけでは、それは思い込みにすぎない。
確証を、得なければ。
陸遜は、酒杯を手にして孫権の方へ歩いた。ひどく緩慢とした足の運びだった。
「……殿」
陸遜が声を掛けると、孫権は振り返った。その目は今だ、潤んでいる。
「陸遜、……何用だ?」
「お訊きしたいことが、ございます」
「うむ」
孫権は、頷くと隣に座すよう片手で示した。
「以前、私がお届けしました周都督様の書簡についてですが……」
「あぁ」
「お読みになられた際、殿は私にその内容を存じているかお訊きになられました」
「……覚えている」
孫権は、少し苦々しい顔をした。
「……理由を、お尋ねしても宜しいでしょうか……」
陸遜は、孫権の顔を見つめた。
それで、孫権も真剣な表情になって陸遜の方を向く。
静かに酒杯を置くと、重苦しげに、その口が動いた。


「……お前が持ってきた書簡、あの中には、周瑜の遺書があった」


――――― 陸遜は、言葉を失った。
予想は、当たっていた。
「己が死んだ後に発見されるより、今信頼する者の手で私に届けたかったと書かれていた」
孫権は再び酒杯を持って、呷った。
「驚いたか?……私も驚いた。周兄もお人が悪いのだ。まぁ、飲め」
陸遜は、無理矢理注がれた酒杯に口を付けた。
一気に、干してしまった。味は、無い。
(……何故……)
頭の中には、疑問だけが浮かんだ。
その疑問も、何を問うているのか判然としない。無論、答えはもっと解らない。
ただ、『何故』という言葉が陸遜の思考を占めていた。





 続く


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”あとがき”という名の言い訳:
姑息なことをしてしまいました……。
如何でしたでしょうか。……周瑜さん、お亡くなりになってしまいました。
書簡のくだりは、最後の伏線です。書けてスッキリ。
黙って自分の遺書を運ばせるなんて、結構酷いことだよな、と私は考えるわけですが。

陸遜の瞳については、何故かこんなイメージを持ってました。何でもかんでもしっかり見る。言い様によっては、不躾なのかも知れませんが。
よって、あの人にもこの人にもキツイことを言わせてみました。

それでは、次こそ真のファイナルです。今回よりは分量少ないと思います。
あとは立志だけさ、陸遜!
…っとその前にやってもらうことがありますがね。(ニヤリ)