其の暁、灼灼たり



完、


酒宴は、夜通し続いていた。
既に酔って眠ってしまった者もいるが、起きている者もちらほらいる。
陸遜はもう問うことを止め、心の中は空洞のようになっていた。
立ち上がり、酒気の充満した宴会場を後にする。
追ってくる者はいない。
夜が明けるまで、まだ少し時間があった。
陸遜は、軍港に向かって歩を進めた。
――――― 誘われている気がしたからだ。
己を後押しするように、ひんやりとした夜風が吹いていた。


(……志半ばでの、ご逝去だった……)
はっきりと「天下二分」と言った周瑜は、まだ記憶に新しい。
だが、それでも不幸ではなかった、と陸遜は思う。
計略以外では、周瑜の残したものは多くある。
(……それに、『あの方』の元へ行けたわけですから……)
周瑜の最期がどの様だったかは知らないが、亡霊にとり憑かれていたのではないと信じている。
最後に本来の果敢さを取り戻すことで、本当に『あの方』の所へ行けたのではないか。
死後の世界を信じてないはずなのに、周瑜に対してはそう思いたかった。


暫くして軍港に着いた。
陸遜は、船着場からは離れ、長江をよく見渡せる広場まで歩いて腰を下ろした。
眼下にある江は、今は穏やかに流れている。
この流れは日に何度も変わることもあれば、二日三日全く変化しないこともあった。
周瑜はこの江と共に生き、戦ってきた。
陸遜もそうしてきたし、今後もそうするだろう。
凌統も、呂蒙も、そして孫権も、だ。
人事の発表は、葬儀を終えてすぐになされていた。
周瑜の後任は、魯粛だった。
魯粛は周瑜の朋友でありながら、周瑜とはまた異なる考えを持っていた。
特に違うのは対劉備外交で、魯粛は実ある同盟関係を結ぶことを主張していた。
夷陵、江陵からは既に兵が撤退を始めているはずだ。
つまり周瑜の計略は、名実共に潰えたことになる。
(……解っている……)
はっきりと、周瑜自身の口から聞いていたではないか。
周瑜の計略は、周瑜と共に在るものだ、と。
だから、彼が死ねば、その計略も無くなるのだ、と。
――――― しかし、それでいいのか。
呉軍は魯粛の指揮に従うだろう。
だが、それで周瑜の計略は本当に無に帰すのだろうか。
陸遜の胸の中には、くすぶっているものがあった。
それは周瑜の死からずっとあり続けていたが、構わないようにしてきた。
しかし、一人で周瑜のことばかり考えていると、そのくすぶりは俄に勢いを増してくる。
陸遜は、やがてそのくすぶりが爆ぜ、抑えきれぬ程に燃え盛るのを待っている気分だった。


「……都督様……」
ぽつりと、呟いた時だった。
「伯言、こんなところに居たか」
低い声がして、驚いて振り向くと、呂蒙が立っていた。
「子明殿。……子明殿こそ、何故このような場所に……?」
陸遜は、立ち上がって拱手しながら訊ねた。
「宴席からお前が居なくなっているのに気付いてな、何となく探していた」
「それは、済みません。一言、誰かに言付けて出て行くべきでした」
「いや、いいのだ。俺も、散歩がてら、という感じだったしな」
呂蒙は、陸遜のすぐ近くまで来て止まった。
「……何をしていたのだ、伯言」
何かあるのか、と言いたそうに周囲を一瞥して呂蒙は言った。
空は次第に白んできて、あたりの物の輪郭がはっきりしてきている。
「いえ。少し、江を眺めていただけです」
そう返すと、呂蒙の目に興味深げな色が浮かんだ。
「ふむ。何か、見えてくるものがあったか?」
「あの、……いえ、何も。ご期待に沿えず、恐縮です」
申し訳なく俯くと、呂蒙は苦笑した。
「そう、すぐに畏まって謝ることはない。一寸訊いてみただけだ」
「……はい」
陸遜は、ぼんやりと周瑜へのくすぶりを持て余していただけだ。
(……そんな私に、何を見ることができる……)
まるで己を侮蔑するように、俯いたまま目を細めて地面を見下ろした。
その時、陸遜は肩を叩かれた。
「公瑾殿は、お前に期待していた」
顔を上げると、呂蒙は目を合わせてそう言った。
「少数でも良いから、お前に陸兵の指揮をやらせてみろ、と言ったのも公瑾殿だった」
陸遜は、わずかに目を見開いた。
江陵に戻った後、呂蒙は積極的に陸遜に錬兵を任せた。
それは、呂蒙自身の判断ではなかったのか。
だが、そもそも、調練を見に行くよう勧めたのも、他ならぬ周瑜であった。
陸遜は、己の顔がわずかに歪むのが分かった。
「……知らない……私は、知らなかった……」
「伯言、公瑾殿は、お前をとても信頼していた」
――――― それは、確かに言われた。
だが、陸遜は周瑜の言葉を額面どおりには取らなかった。
いつも、どこか上手くあしらわれているのではないかと感じていた。
「……自分が、遺書を運んだことも、知らなかった……」
書簡の中で、周瑜は孫権に対して陸遜を紹介していた。
運ばせたのが遺書であることは、そのまま周瑜の見込んだ度合いを表している。
『信頼している』とも、『大事な任務だ』とも言われたが、己は江陵から離れることばかりに拘泥して、不満ばかりを募らせていた。一万を率いた凌統に、嫉妬さえ感じた。
陸遜の言葉を聞いて、呂蒙は哀れんだ表情になった。
「……だから伯言、お前も、公瑾殿を好きだったろう」
「…………子明殿……」
一瞬心を鷲掴みにされた気がして、陸遜の返事は遅れた。
次には、足元から冷えていくような感覚がする。
呂蒙は、そんな陸遜の軸をしっかりとさせるようにその両肩を押さえた。
「お前は、人をよく見ている。……だから、時々自分を疎かにする」
低い声は、陸遜の耳に何の抵抗も無く落ちてきた。
抵抗を感じるほどの余裕が、もう無かったのだろう。
「素直に己を表現することも必要だ、伯言。表に出さねば、それは悪い澱となって、後々お前を苦しめるぞ」
「……わ、…私は……」
何か言おうとして、陸遜の声は掠れていた。
それを自覚した途端、咽喉の奥が詰まった感じがする。
呂蒙は、陸遜を真正面から見つめて言葉を続けた。
「今ならばまだ間に合う。――― お前、まだ公瑾殿の死に涙を流していないのだろう?」
そう言った呂蒙の声は、どこまでも優しかった。
「子明…ど、の……」
陸遜は、己の頬が濡れていることに気付いた。
「……う、…あ……」
くすぶりは、一気に爆ぜて燃え上がった。


陸遜は、子供のように思い切り声を上げて泣き叫んだ。


――――― 誰よりも、尊敬していた。
病に倒れ、心を蝕まれて尚、周瑜が死ぬことだけは恐れていた。
それなのに、周瑜は逝ってしまったのだ。
本当は、周瑜の死を知った時に、その遺骸を見た時に、大声で泣き叫びたかった。
それを肯んじなかったのは、遺骸の持つ雰囲気に沿おうとしていたからなのだろうか。
しがみ付いて声を上げる陸遜の肩に、呂蒙はただ腕を回してくれていた。





思い切り泣いてしまうと、思いの外短い時間で胸の内がすっきりした。
「……済みません、子明殿」
陸遜がそう言って離れると、呂蒙は少し困ったように笑った。
「謝ることじゃない。……本当に、お前はすぐに謝る」
「……そうですね」
言われて、陸遜も思い直す。
「言葉が違いました。……有難うございます、子明殿」
「……なに、大した事じゃない」
呂蒙が照れくさそうに頬を掻くと、陸遜は一寸笑った。


ふと辺りを見回すと、既に夜明けがきていた。
江のずっと下流のほうから、陽が強い光を放って姿を現している。
その光は、いつかの炎の世界での戦いを思い出させるように赤々としていた。
江の水面も、草木も岩も、その赤い光を受けて世界を彩っている。
陽が昇りきってしまえば、この赤い光も通常の色に戻る。
だが、束の間の緋色も、胸の内にはずっと残る。
(……そういう、事か……)
周瑜は亡くなった。
それと共に、周瑜の計略も潰えた。
しかし、それは無に帰したのではない。
周瑜の計略は、陸遜の胸の内に残る。
それはやがて形を変えて、陸遜の計略となる。
そうなった時に、陸遜はそれを描くのだ。


陸遜は、赤く染まった江に向かって拱手の形をつくった。
「私は私の計略を、描いて見せます」

その暁に、陸遜は誓った。





 了


 後へ←

 小説topへ ←



”あとがき”という名の言い訳:

陸遜大泣き。
………というわけで「其の暁、灼灼たり」完了です。如何でしたでしょうか?
ちなみに、“後”の言い訳に書いた「やってもらうこと」ってのはこの「大泣き」のことでした。

このストーリー、立志編ということで、私としては、「ちょっと悟り気味な陸遜がラストに近付くにつれて自分の青さに気付いていく」って感じで書いたつもりです。“起”“承”“間”あたりの陸遜は、やたら人を見切ったような感じ。 それで“転”以降は我を忘れさせてみせたり、周瑜の伏線が発覚したりと、陸遜の考えの及ばないことを起こしていきました。

では、ここらでタイトルの説明を。
「其の暁、灼灼たり(ソノアカツキ、シャクシャクタリ)」。「灼」っていうのは、真っ赤な明るい色のことです。動詞で使うと「燃やす」という意味があるので、赤壁にピッタリじゃん、と思って採用。赤壁の様子とラストの朝焼けのシーンとイメージかぶった感じで受け取ってもらえると嬉しいです。……とか思ってたら「灼灼」って二つ重ねると赤い「花の」色になってしまうらしいですね!!今知ったよ。(泣)
あ、「暁」の次に読点が打ってあるのは、そこで一呼吸おいて欲しかったからです。無いと漢字がくっついて見にくいし。半角入れるんでも良かったんですが、それも色々と面倒を引き起こすであろうと推測。読点を打つことにしました。

長々とお付き合いいただき誠に有難うございました。心よりお礼申し上げます。m(_ _)m